僕は、通夜でも告別式(葬式)でも、泣かなかった。
感情に身を任せてしまえば、涙は流れたと思う。
しかし、スイッチを入れる事はなかった。
決して泣かない訳ではない。
葬式から10日程経って、音楽を聴きながら、部屋で独り、泣いた。
あれはYoutubeの、HjunglewithTが紅白に出た動画、
それからチキンライスの動画だった。
チキンライスは、松ちゃんの子供時代を歌にしたものだ。
僕の家は貧しくはなかったが、僕は、僕なりに気を遣って、
何時も「スパゲッティ・ナポリタン」しか頼まなかった
感情が蘇ったのだ。
先日、独りでカラオケに行って泣いた。
ASKAの「オレンジの海」で泣いた。
それから、大橋純子の「ペイパー・ムーン」で泣いた。
ペイパー・ムーンは、僕が、父を病院に入れようと
決心していた時に聴いていた曲だった。
それがフラッシュ・バックしたのだ。
今、読んでいる本は「ゲンロン0 観光客の哲学」だ。
僕は、かつてTwitter上で私淑していたある哲学者に
裏切られ(たと感じ)て、
哲学や思想なんてクソだ、無意味だ、とこのホームページで
散々と書いてきた。
しかし、やはり、自分の頭だけで考える「考え」には
限界がある。
観光客の哲学、を読もうと思ったのは、
自分の地元が聖地巡礼の対象になり、色々と思う事があり、
その辺りを、実学でない方面から解決しようと思ったのだ。
事例…有り余る事例の話。
これは確かに大事であるが、その事例をどう捉えるか。
商売人の感覚、住民の感覚、これで考えるには
いささか材料が尽き詰まってしまっていた。
事例、事例とは聞こえは良いが、「俺は単に噂話を蒐集している
だけなのではないか」と反省したのである。
成功事例だの、失敗事例だの、いやビジョンが大事だの、
そんなやり口で考えても、堂々巡りではないか、と。
何しろ、人口減社会である事はわかっている、
自分にはそこまでの商才がないので一人勝ちする自信もない、
ではせめて、思想として、どう捉えるか。それしか持ち物がなかった。
読んでみたら、これは膝を打つばかりであり、
大変に僕にとっては読みやすい。
皮肉な事に、哲学なり思想なりを排除しようという人間ほど、
まるで断酒禁煙をしている中毒患者のように、
美味しい、美味しいと、飛び付いてしまうのやも知れぬ。
それで良い、と思った。
これまでは、高踏的たらんとして、僕もこの手のものを
読んでいたのだ。
結局は、僕の問題だった。
さて、亡父である。
人の死を受容するというのは、どういう事なのだろうか。
その為に、宗教がある。
一周忌を無事、迎えられるように、と思う。
僕は未だ、お線香をあげながら、心の中で父と対話していない。
そう、心の中で父と対話する事がない。
会った事のない祖父や祖母とは、お線香をあげながら、
心の中で対話した事はある。
成仏はしているとは思う。
それだけの面倒は見た、と思う。
罪悪感がある訳でもない。
しかし、未だ、僕は、心の中で父と対話する事ができない。
そうしたら、本当に、遠いところに往ってしまう気がするのである。
ただ、祈るのみだ。
その為のお題目、南無妙法蓮華経を唱えるのみだ。
※創価学会ではなくて、うちは法華宗です
この記事について
このページは、2018年2月5日の午後5時46分に最初に書かれました。
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