世間の顰蹙を買うような事を言うから
面白い…というのはあって、
僕もブラックジョークは別に嫌いでは
ないし、どちらかと言えば好きな
方ではある。
だが…。ブラックジョーク、
ブラックユーモアの信者たちが、
「世間はこのジョークに顰蹙を
買ってはいけない、
だってメッチャおもろいやん?」
みたいに結束していくのは、
好きではない。
あくまで世間に理解されない
高度なブラックなネタとして楽しむ
分には良いが、それを世間が理解
しないからと言って、叩くのは
どうか?
叩かれたってしょうがない、だって
顰蹙を買うような事を言うから
面白い訳であるから。
ブラック・ユーモアリストの顰蹙を
買わないように、世間が逆に遠慮する
のであれば、これは全く転倒した
出来事と言わねばなるまい?
芸術無罪論を説く人にも同様の構造を
感ずる。芸術が世間に風穴を開ける、
それは結構だが、ある種のシンパには
世間が芸術に撃ち抜かれる間、黙って
我慢した上、肩をすくめて感心して
やらないと気が済まない、といった
テイの主張も稀にある。
石野卓球の発言に、喝采をあげるまでは
自由だが、それを理解しない世間にキレる
というのは違うだろう?と僕は思う。
そこまでいくと、お笑いが宗教のように
なる。お笑いにも「圧」はあって、
それが世間に抗する圧であるのも結構だが、
世間がお笑いの「圧」に「圧」で押してきて、
マジで切れるのはどうなの?って思ったが、
それを主張していた記事は、よく調べたら
極左のあのメディアの系列であって、
あまりウブなファンを煽る事のないように
願う。
石野卓球の、ピエール瀧の騒動に対する
発言はあくまで不規則で、放埓で、
逸脱しているところに楽しみがあるのであって、
一緒になって、それを理解しない世間に
石を投げたら、あなた方も殴られるといった
だけの事だ。
そんな事を言い出せば、
多かれ少なかれ、ネットで何かを申すという
事は不規則で、放埓で、逸脱した何かが
あるのであり、アカウントを作るというのは、
自分の反逆機械の分身を作るようなものだ。
サーバというものは消失し、
僕らの目の前のスマホやパソコンのモニタ
こそが自分の分身だ。モニタのターミナルに
出てくるものが全てだ。テレビであっても
モニタである。ウェアラブルのガジェットが
広まらないのは、しょせん、モニタをウェアラブル
するというだけの事であって、流石に
モニタを切り離したい欲望だってある。
モニタ、そしてターミナル、一定程度の
勤労人口で、モニタとターミナルと無縁の人は
おるまい。サーバは消えた、サーバだってモニタで
確認する。つまりはモニタとターミナルの
時代がやってきたのだ。ナンチテ!!???
この記事について
このページは、2019年4月5日の午後4時33分に最初に書かれました。
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