僕たちはニュースを配信され、それをSNSに
感想を投稿したりする。
このシステムはFANGの陰謀ではなくて、
FANGに加えて僕たちが自発的に行っているものだ。
例えば、ピエール瀧が卓球と一緒に
肩を組んで笑っているのは本来は自由だ。
それを配信するというのは、単なる友情以外に
意味が発生してしまう。
世間を挑発しているなんて解釈すれば
座りが良いが、僕はもう、意味も意図も
解体し、転倒してしまっている気がする。
芸能人から一般人まで、写真をアップロードする
意味というのは、何だろうか?
好きな人の写真を見れば楽しく、
好きでない人の写真は楽しくない。
動物化するポストモダン、は未読だが、
こういう事を言いたいのではないか、と思った。
アニマルプラネットで、象の特集をしている。
僕たちが映像や写真に反応する事と、
象たちが密猟者や他の動物に反応する事と、
本質的に違いはないのではないか、と思った。
違いがあるとすれば、「意味」であり「観念」で
あろう。人間は抽象的な概念を扱う事ができる。
だが、分業が過剰に進み、メタファーが過剰に
発展した社会というのは、逆に動物的にならざるを
得ないのではないか、と思う。そうでないと
量をこなす事ができないからだ。
きっと、
ちょうど良い「人間的な状態」は通り過ぎた、
僕たちの社会ではないだろうか。
それとも、20年後に振り返れば、今のSNSの
乱痴気騒ぎは、実に人間らしい、人間とシステムの
ふれあいの時代として回顧されるのだろうか?
この記事について
このページは、2019年5月6日の午後9時20分に最初に書かれました。
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