かなりヘビーな話題になる。丸善の書架の割合からしても、かなりマイナーな議論になるかと思う。故に、自信たっぷりに主張する内容ではない事は了承されたい。いわば、本エントリーはあくまで「仮説」である。
福島県においての、甲状腺の過剰なスクリーニングによって、多くの甲状腺の「異常」が見つかってしまい、それにより、訳のわからない風評被害と健康被害が発生する。
僕は思うのが…低体重児においても、同様のパターンの現象が起きているのではないか?という事である。低体重児に生まれた子は、普通の子よりも多くの「スクリーニング」を行うだろう。低体重児の子に、発達障害が多い、というのは、これは過剰診断の結果ではないか?と思うのである。前立腺ガンや、甲状腺のガンの検査の如く、発達障害のような曖昧な「特性」については、検査をすればするほど出てくる。確かに、超低体重児のようなケースで、脳の発達が遅れてそうなっているケースもあるだろうが…。
発達障害の検査項目を見てもわかるように、これはもう、子供に対する、人間に対する難癖のようなものである。発達支援というのは今では、多くの市町村で行っているが、「発達支援依存」のようになっている家族もあるのではないかと思う。発達障害とは、「問題児」の「医療化」であり、「社会的な医療問題」である。厚生労働省が定義するところでは、発達障害は「病気」ではなくて「特性」である。
厚生労働省が、「特性」と定義するのは、僕は、障害者差別を回避するため、と意図を探っていた。これはそうではない。「特性」としておきたい事情がある。つまり、本当に「特性」だと思っている。そして、「特性」としておく事で、将来のハンセン氏病の訴訟のような、大規模訴訟を「予防」しようとしているのではないか…。
陰謀論的だが、そこまでの深謀遠慮を見てしまった。今の世の中というのは、均衡しているような部分であっても、過剰であったり、過少であったりしながらも安定しているという事はある。つつがなく進んでいるように思えて問題を孕んでいる事がある。例えば郵便局の簡易保険の勧誘の事例が良い例だ。第三者的には、郵便局の人は、高齢者に近い立場で、優しくサポートしているのだな…と温かい目で見ていたのだが、実際は、過剰な営業と契約を行っていた、という訳だ。
誰が、「発達障害」を定義しているのか。医療関係の団体か、製薬会社か、病院の診断書の中か、文部科学省か、個々の学校か、市町村の福祉障害課か?病気なのか特性なのか?問題児なのか患者なのか?そのような、本質的な問い掛けもないまま、ただ、いたずらに、発達障害という定義の閾値が広がっているように、僕には思えるのである。「高血圧」や「糖尿病」の閾値も広がっていったように、「発達障害」の閾値もこの二十年で広がっているように思える。発達障害の閾値を広げた事で、個人として、社会として、どのような便益が得られたのか、そういう論文があれば教えて欲しい。曖昧な「関係者頑張っているのに話」はもういらない。
世の中のパラダイムは必ず転換する。現代、医療大国と言われるアメリカの、「病院好き」というパラダイムが転換してしまったら、世界規模のグローバルな超大訴訟が発生するだろう。いらん薬を飲んでいる人は多いからだ。
一方で、効果の高いワクチンなどは、反ワクチンの動きもあったりする。医療は、社会正義という意味もあるが、商売でやっている部分はある。医者は商売である。僕たちが病院にかかるというのは、医療というサービスにアプローチしているだけだ。病院を妄信するのもどうか、と思う。勿論、具合が悪くなったら病院に行った方が良いだろう。
例えば、かつては、瀉血、つまり、血を抜く事で病気が治る、という治療法があったらしい。現代の医学は科学的であり、数値と画像を駆使するが、あまりにも異常を発見しすぎてしまう、というのは承知しておいた方が良いのではないか、と僕は思う。適切な食事、運動、睡眠、社会的に孤立しない事、これが僕は最も健康の上で重要な事だと思っている。
戦国時代の武将で長生き、といえば、北条早雲の末子である北条幻庵、真田安房守昌幸の子である真田伊豆守信幸である。病気になったら病院にかかる、及び前述の食事等の点、それで十分ではないかと僕は思う。
そういう時代だから…とこれまでは思ってきたが、自分の近しい人がそのような診断をされ、特殊支援学級、特殊支援学校に押し込まれるやも知れぬ…という状況になっては、やはり考えは変わってくる。そのようなバイアス=立場の上で書かれたエントリーである事は了承されたい。重度の精神障害に対するアプローチは全く否定しない。閾値が広がっているというのが論旨であるので誤読しないよう。いたずらに病名を患者に乱発する医者こそがサイコパスだ、とまでは言わない。
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