Game-Seisaku

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「狂気!朧高校」のゲーム制作の話である。システムの大枠の、触りぐらいは少し形になっており、まずキャラクターと背景の素材を揃えないと、シナリオの方に入れない。シナリオに入れないと、システムも作れない。という訳で、今は、お願いしている素材の完成を待ちながら、自分でも少しキャラクターを描いている。
 
キャラクターや背景をお願いしているのは、別に自分の絵が自分で好きでないとか、そういう訳ではない。シンプルにクオリティを高めて作ったらどうなるか?と思っている。「大介護列車」においては、キャラクター自体は二日ぐらいで揃えてしまったが、BGMについては、ソニックワイヤーで音源を買って、凝った作りようにしてみた。いかにもゲームBGMみたいなものより、ちゃんとした音源を作った方が、より、映画的になる。
 
朧高校は、当初は、今年中に作るぐらいの感じで、サクッと作るつもりではあった。だが、本当に本気で時間をかけてゲームを作った事がない。それは、漫画もそうなんだけど、ちょうど今、力を入れて作れるコンディションに入っている。Unityの操作にもだいぶ慣れてきており、ゲームらしいゲームというものの道筋が見えてきた。作りたいものを作れるというだけで、俄然、面白くなる。描き込んでもらったキャラクターや背景を入れるだけで、まるで、そういうゲームがあるかのようなゲーム画面が出てくる。これは楽しい。
 
ずっとゲームばかり作っていると、副産物的に、1ページの漫画のアイディアも出てくる。それはそれで描く。モニター式のタブレットを使うようになって、それも、ここのところ慣れてきて、クリップスタジオにも慣れてきたので、かなり気軽に描ける。LINEスタンプもすいすい描ける。かなり創作という面については、心技体ともに良い状況である。
 
そんな訳で、コロナ渦にある中、引きこもろうと思えば引きこもれる状況にはある。だが、僕は家の中にずっといるのはあまり好きではない。8年ぐらい、在宅介護をしていた事があって、本当に家にじっとしているというのはしんどいという事を知っている。またしても縛られるのか?という思いがある。引きこもりを続けるには高い理性や知性、能力が必要である。僕はそれが足りないので、ずっと家にいる事ができない。
 
まあ、そろそろ、本業の季節要因として、引きこもる時期に入る。仕事→制作→整体→休息 みたいな生活になるかと思う。そう言えば昨日で4月1日であり、新しい期が始まった。いよいよ、ゲーム制作も本業も、腰を据えてやらねばいけないな、と思っている。震災の時は、ちょうど介護が始まった時期と同時期であり、正直、震災の色々な事よりも介護の方がよっぽどきつかった(僕は、非被災地であったのでそういう事だ)。今回のコロナ渦に関しても、結局は在宅介護の精神的なキツさと比べれば、あまり、どうという事はない。
 
何事も解釈次第…という部分はある。付随する部分がしんどい、というのはある。介護についても、単に叙事的に考えれば、ひとつひとつのシンプルな事実の組み合わせであり、身体的、金銭的な部分を乗り越えられれば、本来は精神的な部分はゼロであっても良い。失恋でもパワハラであっても、殴られた、というのはまた別だが、本当に叙事的に考えれば、目の前の人間が口を動かして悪い事を言っているだけである。コロナだから家に居ろ、というのも、叙事的に考えれば「家に居る。」それだけの事ではある。
 
でもそうはいかない。色々と考えてしまう。僕もなるべく人混みは避けようとは思っているし、人に感染はさせたくない。だが、無症状の場合もあるので誰しも感染させる可能性がある、という事の重さ…というのが、本当に何だろうな?と思ってしまう。そんな事を言い出したら、コロナ渦が終わったとしても、見知らぬ他人と席を同じくするとか、ガールズバーで騒ぐとか、そういう事が全部ダメな事のようになってしまう気がする。もちろん、その手の事は、おさまってしまえばなかった事のようにまた動き出すだろう。
 
かつて大航海時代、植民地時代に、あれだけ感染症を輸出していた欧州がやられるとは、思っていなかった。感染症を輸出して、その上で最初に感染症に勝利したであろう欧州が、再び感染症にやられる、というのは、実に痛烈な皮肉であるようにも思われる。思えば大航海時代からグローバリズムは産声をあげており、その時代から感染症の輸出が始まったとするならば、人類ができる事は、グローバリズムの針を戻す事ではなく、やはり反ワクチンを論破して、ワクチンの接種を進めていくしかないのではないか、と思う。
 
「自粛せよ」という声がある。だが、人類皆本当に自粛して家に引きこもっていたら、それこそ実経済が破裂してしまう。志村けんのように、死んではしまったが、こういう時にリスクを取ってガールズバーに行くような人もいる、そうでない人もいる、という多様性が、この世界を成立させているのだと思う。故に認め合おうとか、故にみんな違ってみんないいとかそういう話ではなくて。


この記事について
このページは、2020年4月2日の午前5時28分に最初に書かれました。
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