インターネットと属人性

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インターネットというのは、かつて、
内容だけで評価される、「誰が」よりも「何か」、
保守的ではない「自由」、
そんな風に動いていたように思う。
 
だが、それすらも、僕の幻想だったようで、
既にジョン・アーリが、1997年に、
「インターネットのコミュニティの保守性」を
引いて論じていた…。
 
思い出してみれば、確かにそうだったと思う。
僕がインターネットに参加したのは
2000年からだった。
 
ネットマナー、ネットエチケットなども
言われていたりして…。
そして、その頃には既に、属人的なインターネットで、
かつて自由が再来したかと喧伝されたTwitterも、
「何が」よりも「誰が」の世界になった。
 
昔のインターネットは自由だった、
僕はそんな風に思い込んでいたのだが、
ずっと「何が」よりも「誰が」の世界で
生きてきたという訳だ。
それも、現実の写し絵のような、
保守的なコミュニティの中でだ。
 
サイバーパンクの思想というのは、
肉体から離れたインターネットでは
思考能力も人間としての内容も増強されて
世間から離れた、高踏的な…
 
筈だった。
しかし、かなり早い段階で、
サイバーパンクの夢は消えていたようだ。
 
がっかりしたと同時に…。
面白いな、とも思うのである。


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