コロナ禍においてゲーム制作のクラウド・ファンディングがあり、ゲーム素材を提供する等のリターンが用意されていた。去年、今年と連続でシリーズ化されており、そちらに支援を行った。
そのゲームをあるゲーム実況者が実況をしていて、「お金払って曲をタダで提供して何もいいことあらへん」「パトロンどもが」「このXXという奴、どんだけ自分の名前出したいねん」などと、好き勝手に批評された。毒舌で笑いを取るタイプなのだろう、この手の毒舌で人気実況者に分類されるらしい。
この実況者の動画を、当該のクラウド・ファンディングの主催者がTwitterで取り上げていて、「実況ありがとうございます、いつかこのゲームで対戦しましょう」というようなツイートをしていたのであった。
ここにひとつ心に澱が溜まっていった。
この実況者の毒舌が許せない…というより、ある種、本質を突いている。それは言わぬが花だったが、事実であり真実かも知れぬ。俺は何やっているんだろうと思った。
その動画は去年に出た動画であるが、つい最近、ポッドキャストのようなところで、クラファンの主催者が、「このクラファンによって陽の目をみなかった人に光が当たっている」「ゲームが面白いからこそ曲が名曲になる」などと対談していた。なるほど、これも事実であり真実だろう。クラファンにお金を出して素材や曲を提供する創作者は、陽の目を見ない連中だろう。
これら、以上の発言は、正確な引用ではない。聴き直してみればまた違った印象を他の方は受けるだろう。だが、一度聴いてみて、心の中で反芻しているうちに何か曖昧なイメージが固まっていく事がある。つまり、これらの印象は、元々僕の中にあったものなのであった。元々僕の心にあった不安や、何かの疑いの気持ちが、これらの発言や映像に触発されて出てきたという事に過ぎぬ。
最初にこのクラファンに支援した時は、勿論不安があった。ほんとうにゲームはリリースされるのだろうか。このコロナ禍でオンラインの打ち合わせも成立するのだろうか。素材や曲はほんとうに使われるのか。そもそもクラファンは仕事の契約ではない。「信用」を信用して提供しているのである。その対価は感情的なものであったり、BUZZ的なリターンである。
その不安は既にないのであるが、何か心にシコリが残るような思いがある。澱が溜まってきている。ちょっとカッコつけるために例えに出すが、ウォズニアックがAppleを去ったように、ハリウッド・ザコシショウが吉本を去ったように、僕も今回でこのクラファンを去ろうと思うのである。
階段を駆け上がって屋上まで辿りついて、これ以上登る階段がない。他人のビルだからだ。小さくとも自分で自分の作品を作らなければならない。僕は陽の目を見るためにやっているのだろうか?ほんとうにBUZZりたいからとか、陽の目を見たいからやっているのだろうか?世の中に影響を与えたいからか?
人間とはいえ、人間も動物である。僕が一匹のシマウマや象であるとしたら、観察者から見れば特に理由はわからないが、ある群れから離れて違う群れの方に草原を歩く獣のようなものだ。そこに特に説明できるような理由はない。ただ人間なので、こうやって文字を弄して気持ちに決着を付けようとしている。だが、このクラファンがあって今がある。
創作活動、制作、色々と当てはめる言葉はあろうが、また、休眠期というか、非活発な時期に入ろうとしているのかも知れない。これが収入の足しになる訳ではなく趣味でやっているので、とにかく嫌な気持ちになったらそれを何とかしようと思っているのであるが、いちばんの敵は自己嫌悪であり、猜疑心であり、自己不信であり…
この記事について
このページは、に最初に書かれました。
その後も、内容を更新したり、削除したりする場合があります。
古い記事は、内容が古くなっているか、間違っている場合があります。
その場合でも、訂正や修正をしない事もあります。
また、記事は、用語の厳密性に欠き、表記揺れも含みます。
厳密な調査に基づいた記事ではありません。これは筆者の主観です。
怪文章のようなものもありますので、回覧にはご注意下さい。
自分でも、「馬鹿が馬鹿言ってる」と思うような記事もございます。