リンクは張らないが、最近、日経で哲学対話を実践している
高校の話が紹介されている。
それについては、また、考える事はあるのだが、
それとは別に、
「親学」オヤガクというものがあって、
親とはかくあるべき、という思想体系、
例の絵本作家とか、キチガイ医師と言われる人の
言動なんかが、正に「親学」の極北と言える。
本によらない言葉、いわゆる本当の言葉、
哲学対話というものの大事さはわかるのだが、
やはり書籍による読書、思考によってしか辿り着けない
ところはある。車輪の再発明と言われるもので、
確かに、自分の力で同じ結論に辿り着くのは貴い事では
あるが、あまりこの手のやり方をやってしまうと、
オカルトじみた「親学」、または「地球平面説」のような
ものを信じてしまうようになってしまう。アメリカでは、
地球平面説を信じている人が一定数、いるようだ。
自分の頭で考えて、「親学」や「地球平面説」を
再発明してしまう事はないだろうか?と思う。
まず、最近思うのが、自分には教養はあまりない、
と思っているぐらいで丁度良いし、
これまで信じていた事が全部嘘であったとしても
受け容れる柔軟性を持たねばならないな、という事だ。
野生爆弾のろっしーは受容性高すぎだが…。
話は表題の「アンチ・オイディプス」に戻るが、
親-子関係というのを、あまりにフォーカスしすぎじゃないか、
というのはある。親の因果が子に報い、という奴であるが、
運命的に、構造的に親子関係、家族関係が問題を孕んでいる…
という、何というかなあ、親の側も、子の側も、
親子関係という構造にエッジを利かせすぎ…社会の側もそうで、
それを克服するのが個人主義だ、というのではなくて、
まず、オイディプスの構造自体を、少し疑ってみる、というか、
心理分析的に、家族とは何か、というのには、ちょっと、
距離を置く、というか、つまり、フロイトの呪縛、というものを、
点検してみても良いんじゃないか、という事。
うまく説明はできないが、恐らく、哲学対話で、
アンチ・オイディプスを明確に打ち立てる事はできないと思う、
まあ、これだって例えばの話ではあるのだが、
僕はやはり、哲学にしろ社会学にしろ人文科学にしろ、死んだ、
無意味だとは思っていなくて、耳目を集める部分で露出する
それが、まあ万人受けを狙い過ぎているというだけで、
音楽だって、長く聴き続けてきて発見できる「名曲」って
あるでしょう、学問だってそうあっていいし、そうあるべきで、
だからこそ、哲学対話で入口の門を破壊する必要はあるが、
門の先には何もない、というのは違う。
何でも疑う、という精神が染み付いたアメリカで、
天動説、地球平面説が跋扈している、というのが、
非常に示唆的で、地動説を疑うようになってでも、
疑問を持つ子供に…というのは、やはりリスクはある、
ノーリスクではないよ、というのは、やはり、言っていきたい、
教養というものも、また、ある。
好意的な取材であるので、仕方がないが、
まるで哲学対話は良い事ばかり、というように
読み取れてしまって、何でも疑う人、これは確かに
訴求力はあるが、自分は何でも疑ってかかる、というような
人が、どうしようもない事を信じ切っていたりするのを、
僕は何度か見てきているし、大学時代は英語研究会で
ディスカッションセクションに入っていたから、
この手の、批判なしの意見出し、というものね、
ちょっと不謹慎ながら、けっこう、危ない結論にいって
しまったりもするし、何かね、オカルト的な匂いも
あると思うんだよね、そのあたり、日経は注意して
取材するべきだと思うね、ちょっと取り込まれている気が
するよ。記者が。
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このページは、2019年5月16日の午後7時12分に最初に書かれました。
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