Kenryoku Han Kenryoku

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昨今、検察の人事や定年に関する法審議に関して、色々とうるさい事になっている。僕は検察についてあまりよく理解はしていない。だが、検察は起訴したり、不起訴したりする仕事がある。そして検察の仕事は、権力者を起訴して弾劾する仕事に限定はされていない。検察は行政と司法の間…と言われており、政府と検察、国民と検察というのは、ある意味、微妙な綱渡り、綱引き状態にある。
 
政府の汚職をどんどん暴いて、検察がドシドシ起訴していく世の中…これをもって「世直しだ!」と感じておられるのであれば、あまりに無警戒すぎる。その検察が、さほど罪のない国民を起訴していくという事は考えないのだろうか?法律の解釈に「正解」があると思っているとしたら、これはおかしいんじゃないかと思う。いやそうじゃない、今はあまりに政府が横暴だから…という向きもあろう、だが、その前に、芸能人のスキャンダル大批判やコロナ自粛警察といった、「草の根の生権力的展開」も振り返ってもらいたい。権力とは何だろうという事である。
 
さて、検察の独立性を高め、どんどん強くすれば権力者が起訴されるから良い事だ、とあまりに断じている批評家もいるものだから、その検察の力を限定的に考えているのは、これ、相当頭に血がのぼっているのだろう。大義VS赤っ恥のような構図を描いている。これは何に似ているか?
 
権力VS反権力で、侃々諤々と議論する、結局、石の投げ合いである。子供の石合戦のようなもので、こちらの投げる石は無敵なので徹底的に相手を懲らしめ、相手の投げる石はあまりに弱すぎて効かないしこちらは無敵だから無意味…というような、レトリックと言辞で相手を懲らしめるというやり口である。だから、僕にせよその批評家にせよ誰にせよ、多くの議論…というのは、石合戦のようなものだ。
 
人間は動物であり、また大人は子供である。動物の部分、子供の部分、というのを、うまく誤魔化して、大人の顔をして僕たちは生きている。しかし、根本的な衝動、感情というのは、絶対に文明や教育によって飼い慣らし切れない部分がある。だからこそ、大人は戦争ができるし、健康のためになら死を選ぶような対コロナ戦争ができたりするのである。無垢な子供が戦争をしないのではなく、かつては石合戦、昨今ではドッジボールで、石やボールを投げ合うような子供の戦意が、喜劇も悲劇も生むのである。石もボールも投げないという平和主義者たちは、言葉という石=言葉というボールを投げるのである。


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このページは、2020年5月17日の午前6時58分に最初に書かれました。
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