亡くなって92日が過ぎた。
父が居ない事は、自然と受け入れられるようになっているが、
反射的に「あれ?」と思う事もある。
正直、ずっと面倒を見る事は不可能だったと思う。
あの頃は、この介護の生活でない、それ以外の生活をしたいと
思っていた。
今はその場所に居るのである。
両親を早く亡くした人には、その人の不幸があるし、
終わりのない介護をしている人には、その人の不幸がある。
やっぱり不幸は不幸であるし、
幸福は幸福だ。
理解は理解であるし、
誤解は誤解だ。
だからといって真実が一つという訳ではない。
おおむね、一人の人間で理解できる事は限られている。
一つの学問で解決できる事も限られている。
何より限られているのは、限りある人生だ。
父は、限りある人生を、少なくともベターな方を
選択する事で生き抜いた。
思えば、あんなに怒らなくても良かったとか、
あんなにバカ喰いしなければ糖尿にならなかったのにとか、
悔いる事、恨む事、決してない訳ではない。
陰と陽という考え方がある。
理解は誤解で誤解は理解、
幸福は不幸で不幸は幸福、
これは陰陽的な物の見方である。
しかし
陰=陽 と定義すると、
結局
陰=陰
陽=陽
とも言える。
つまり、因果のトートロジーを表現したものである。
因果のトートロジー、それは即ち「輪廻転生」の事でもある。
ドイツ哲学だかフランス哲学だか知らないが、
結局僕の考えというのは仏教なのだろうか。
敵は味方で味方は敵、
うん、わかるよ、
でもさ、こういうのって、結局、
レトリックでしかない部分も多分にあると思うんだよね。
話は戻るが、
介護って本当に辛い、
人によって介護の状態も違えば受け止め方も違う、
金で解決できるのは一定の範囲内、
金があれば解決できるというのは一定は真実だが、
それこそ、桁外れの金がなくては解決できない介護もあるし、
強烈な徘徊老人を引き取ってくれるのは
金の力ではどうしようもない、
どうしようもないじゃないかよ。
どうしようもない事だってあるのよ。
ああなってしまっては。
どれだけ介護をしようとも、
一定程度の万人に共感される介護の話は難しいんだ。
それは、介護が、人生のうちの、濃縮された部分で、
あまりに個人性が強いからだ。
それをお互いに認めるところから、
全ては始まる。
全ての介護者たちに、明日は今日よりも幸福のあらん事を。
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