「DSM-5は聖書ではない」論

with コメントはまだありません


一連の、DSM-5の論考に関して、個人の意見を攻撃、批評するものでは
ないと断っておきたい。また、僕のブログは、かなりアクセス数は少ない
ため、社会的影響は無視できるほど、小さい。
 
DSM-5は聖書ではない、ひとつの診断基準の共通言語であると
認識した方が良い…これはあくまで、精神科医畑の間での
言葉である。
 
事実、これを基準として、患者に「病名」を宣告する事
できる以上、それなりの社会的責任というものがあろうと
思う。テクニカルな解釈で、「聖書ではない」と
言われても、患者は、医者の病名を信じないなんて
事は少ないからだ。
 
この論理が通用するのは、あらゆる医療関係者が善良で
あったら…という前提の元であって、それこそ、
症状なり病名の定義を増やす事は、誰かを貶めるためにも
使われてしまう。病名を持つ事は、現代において恥であるし、
保険の条件にも関わってくる。雇用においても。
明確な損失が患者に発生する。
 
「聖書」という言葉が出てくる以上、そのように受容されている
現状があってこそのものであろう。何ら顧みられていないものに
対して「これは聖書ではない」というレトリックは通常、
用いない。ナンセンスなユーモアとして言っているなら別だが…。
 
結局、臨床や現場で何とかして下さい、と言わんばかりだが、
発達障害やパーソナリティ障害をはじめ、インターネットや
噂話レベルでの、これらdisorderの勝手な解釈の巷間での
氾濫に、平然としている諸君らにこそ、
 
「性的サディズム障害」を宣告したい。
若しくは、何らかのパーソナリティ障害が該当するだろう。
僕も、傾向としてはサディズム的な性格だ。
 
自分の精神の正常性によっぽど自信がなければ、これほどまでに
体系化した精神病の症状の分類はできないだろう。皮肉にも、
DSM-5の存在自体が、パーソナリティ障害を呈している。
そしてそれを批判するものも狂っている…というね。
 
DSM-5に定義される症例に、全く当てはまらない人など
いるのだろうか?特にパーソナリティ障害の症例の記述など
かなりひどいもので、引っ込み思案もdisorderと定義されて
しまっている。
 
これで、人類の幸福になるとは、到底思えない。
DSM-5自体が、猜疑心や論争、悪意の発生をdisorderとしている
のだから、DSM-5自体がDSM-5自体を防衛できる建て付けにも
なっている。DSM-5を疑う患者に病名を与えて対抗できる
仕掛けだ。
 
だが…DSM-5が分類をやめたとしても、「人間の悪徳」や「業」が
消える訳ではない。かつて、このブログで、発達障害だの何だの
というのは、要は、性格の悪さ、育ちの悪さ、人の悪さみたいなもんだ
…と書いたが、結局はそこに戻る。
 
性格の悪い奴はいるし、意地の悪い奴はいる、心配性の人もいるし、
妄想がすぎる奴もいる。そこまでをも、精神医学が触手を伸ばした
のはやり過ぎであろうかと思う。まあ、本屋の書架を見るがいい、
精神病に関する本は、難しい専門書と、ごく一般向けの本に
二極化されている。間の本は、極めて少ない。また、法律や経済
の分野であれば、分野内での批判や、論争が必ず書籍になっている
のだが、医学に関しては、医学への批判というものは、キワモノ扱い
になる事が多いように思う。勿論、法律や経済と同様、キワモノの
批判もあろうが…。
 
ただ…先進諸国において、医療費や介護費というのは、かなり、
国の予算に対して比重が高まる傾向にある。高齢化が進んでいる
からだ。このまま、医学そのものの批評や論争をオープンにしなくても
良いのか?
 
とは書くものの…ある種、その転換は、危険な賭けでもある。
やはり、僕も賭けになってしまうと思う。この世は、必ずしも
性善説で動いていないからだ。だからこそ、医療畑の人たちが、
内々に、上手に軌道修正してもらいたい…と願って、このブログを
書いているのだが…。
 
全くの的外れの内容であれば、黙殺してくれ。
 
そもそも、精神医学というのは、どういった経緯で誕生したのだろう?
いたずらに、古典的な精神医学の世界に、懐古主義的に回帰したい
訳ではないが…それは知りたい。かつての、精神分裂病に罹患した
者として…。
 
僕は、経済学的な立場から、過剰診断がインフレーションを起こして、
国家として医療費が賄えなくなり、最も重篤でクリティカルな
患者が救えなくなる事態を憂慮している。そして、この憂慮、
人の生き死にに直結する分野だからこそ、医療統計も中立的に
網羅的に出し辛く、難しい問題である事は認識している。
 
マスメディアや、雑誌、インターネットでは、論争が難しい分野で
あろうと思う。内々に解決してもらいたい問題ではある。
DSM-5で定義されている症例の中には、組織論、コミュニケーション論、
マネジメント論で解決できるものが多く含まれているように思う。
ニーチェだって発狂して死んだと言われているが、偉人ではある。


この記事について
このページは、2019年7月30日の午後4時25分に最初に書かれました。
その後も、内容を更新したり、削除したりする場合があります。
古い記事は、内容が古くなっているか、間違っている場合があります。
その場合でも、訂正や修正をしない事もあります。
また、記事は、用語の厳密性に欠き、表記揺れも含みます。
厳密な調査に基づいた記事ではありません。これは筆者の主観です。
怪文章のようなものもありますので、回覧にはご注意下さい。
自分でも、「馬鹿が馬鹿言ってる」と思うような記事もございます。






SiteMap | ページ一覧 | サイトマップ