Ki-ga-Yowai

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僕は、生来的には本当に気が弱い。何かを主張するという事が難しい。自分が嫌だとか、気持ち悪いという事を表明できない。したいと思う事をそうだと言えない。そういう部分がある。
 
大人になってもそういうところが残っていて、これは違法だろうとか、これはおかしいだろうとか、これは侮辱だろうとかっていう事に対して意見を言う事ができない。そういう性格だから、甘く見られて、足元を見られて、「何でも言う事を聞くだろう」と思われてしまう。
 
それでも、基本的に性善説で行動している。性善説だ。信用できる人は信用し、ちゃんと理由があるならそれは理解する。性善説でやらないと、管理…とか抑圧…とかいう事になってしまう。それは良くない。意趣返しのようになってしまう。
 
子供の時…友人の家に、ファミコンをする為に集まった。だけど、僕は見ているだけで、「僕もゲームをしたい!」という事が言えなかった。あの時はファミコンの人気が高かった…という事もある。非常に競争率が高かった。それでもなお、見ている時間がとても長かった。結局、ゲームができた時間というのは、とても少ない。あれだけ、ゲームをやるところを見ていた…というのに。
 
「僕にもゲームやらせてよ」と言えない。誰か、「XXちゃんもゲームやったら?」と言うのを待っている。いや、言われたとしても、僕は誰かに譲ってしまっていたように思う。僕は人がゲームをしているのを見るのは決して好きではない。そんな思いがまだ、心の中に残っている。
 
見ていただけ…ゲームのプレイをRead Onlyしていただけ…という、”修行”期間があったため、僕は、未だにゲームというものに飽きていない。あの頃、「おでも、ゲームやらせてやらせて~」の、”やらせて君”は、とうに、テレビゲームなんてものに飽きてしまっただろう。でも、僕はそうじゃない。
 
あの頃、「俺もゲームやらせて!」という、主張の強い子供に生まれていたならば、僕は小説も漫画もゲームも作る事はなかっただろう。そういう思いがあるからこそ、創作なんてしないにこした事はないし、する人間というのは何処かが欠落している…なんて論に、僕は大きく頷くのである。


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