芸能人というのはイメージ産業の役者であるからして、
芸能人の罪とは、世間に嫌われる、という事だ。
この時代において、世間に嫌われるとは、
週刊誌やスポーツ紙やネットニュースにおいて、
「誰それはナニガシの事件で世間に嫌われている」
と、報じられる事を指す。
「嫌いな芸人」「嫌いな芸能人」の上位に出てくる
事自体が、罪深い存在として君臨する事になって
しまう訳だ。
そう考えると…。人間・宮迫、国民・宮迫、という
存在は、ほぼ、罪としては本来は「微罪」の筈である。
それはベッキーにしろ、次長課長の河本にしろ、
「微罪も微罪…」である筈である。
この日本は、法治国家であるからだ。
あくまで、イメージ産業の人間だからこそ、
彼ら、彼女らは叩かれている、という事を履き違えると、
人権にもとる誹謗中傷をしている、という事を、
我々視聴者も、スポンサーも、広告代理店も、認識すべきだと思う。
芸人と他のファクターの契約関係が、一番の下請けの構造になっており、
その上、アナログで脆弱であることは明らかであるのに、
世間にはあたかも最も権力が集中しているように思われている。
実際の力…という意味では、そういう面でもあろうが、
契約社会の「力」が発動されれば、何の遠慮会釈もなく
吹き飛ばされるのである。
まるで、芸能人がのし上がって、訳のわからないスキャンダルで
吹き飛ばされるまでがショー・ビジネスのようにして、
世界の芸能は動いているような気もする。
純粋にコンテンツを供給して笑わせたり、悲しませたり、喜ばせたりする、
というシンプルな状況ではない。
スキャンダル含みで、ある訳なのだ。
だから、究極的に、芸能ニュースというのはそれ自体がコンテンツであり
「茶番である」と断言したい。その茶番がどうしようもなく、
面白いのであるから…。
池波正太郎、真田太平記を再読しているのだが、
人間のする過ち、成功というものは、既に出来上がって
いる上…その上で、間違えてしまうのである、
これそれは、こんなものだと「決めてかかる…」と
間違えるのであるから、人間には手の打ちようがないので
ある。
ここで、またぞろ、「芸能人は河原乞食云々」という話が
ブロゴスあたりから出て来そうな塩梅式であるが、
網野善彦や、網野以降の議論を踏まえてその話題を
提出する事を了とされたい。クオリティ・ペーパーであるなら。
網野はファンタジーと言えるのは、網野を読んだ人間に限る。
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このページは、2019年7月3日の午後7時13分に最初に書かれました。
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