発達障害の症状は「特性」である、というような
言い方があるが、これは厚生労働省が言い出した事なの
だろうか。
DSM-5の本を読んでいるが、今のところ、発達障害の症状だけを
「特性」と位置付ける記述が見当たらないからである。
妄想症の「妄想」を特性としないように、
発達障害の症状を「特性」と位置付けるのは、
社会学的に発達障害を解釈した結果なのか、
それとも、医学的に位置づけられているのか。
この混乱こそが、精神医学というモノの、現代における立場を
示しているのではないか…と最近は思う。
そもそも、僕は、少なくとも人並みに育てられた人間が、
教育や労働の環境で、順当に順応するのが「正常」であり、
そうでないのは「異常」とする、精神医学の分類主義には
懐疑的である。
おおよそ、性善説すぎる世界観であるように思うし…。
例えば、精神医学の権威を、アフリカの隔絶された
部族に放り込んだら、自閉的に振る舞わざるを得ないだろう。
DSM-5で、最初に定義されている、精神病というものが、
あくまで、環境や文化的な要素を排除してなお、
異常と診られる精神状態を発揮する症状を持つもの…であり、
まず症状をもってして分類されている、というところがポイントだ。
誰が、それを症状と決めているのか…という疑念がまずある。
症状ありきである以上、社会が寛容であればそれは症状では
なくなる。ところが、分類を増やし、整理して減らすにしても、
体系化すればするほど、社会の寛容さは失われるので、
このジレンマにどう対処するのか?
そこで生まれた方便が、「特性」という言葉であるようにも
思うのである。精神医学の症状の体系化を進める一方で、
社会の多様性、寛容性を広げる…というのは、やさしい事ではなく、
二律背反の状態であると思うのだが、
読者諸氏や精神医学畑の方はどうお考えか。
諸君の知性をもってすれば、それは容易いのか?
社会…自分たちの組織、仲間に、人を受け容れる…
勉強してもらう…働いてもらう…それに関する
コミュニケーションや精神の課題というのは、
それこそアプローチは「人それぞれ」である以上、
少なくとも精神医学は、自分たちの「権威」を
自覚して、人間性に対する侵犯、僭越を点検
してはどうか?精神医学の分類主義そのものが
発達障害的のように、僕には思える。
投薬以外で、僕たちが関われる事と言えば、
結局は言語的、もしくは非言語的なコミュニケーション
以外にない。これ以上、精神医学を分類し、
体系化したところで、そこまで高尚な人間ばかりで
ない事を、エリートの方々には知って欲しい。
精神的に不幸である自由というものも、あるのではないか…。
本当に、重篤な精神病患者に、治療をフォーカスすべき
だとは僕も思う。現状は、感染症予防のために、
他に病気のない患者の僅かな打ち身や、擦り傷に、
外科医の手を煩わせていくようなものだ。
誰しも罹患する可能性もある精神病…という神話は、
まるで、呪術的な装いであるかのように、僕には思えるのである。
かつて、人間が理解できない事は、アニミズム的な、呪術的な、
宗教的な信仰や解釈で、不安を凌いだ。現在、そこに精神医学が
入り込んでいる。理解できない人間を、分類して、「欠陥」として、
「異常」として、とりあえず名前を付けていく事で、安心を
得ようとしているのではないか。
これは何度も言っておきたいが、精神病というものが存在しない、
という主張ではない。DSM-5の本を読んで、あまりに些末な
人間の精神の変化やダイナミズムを、症状、欠陥、としている
ところに、大いなる疑問を感ずるものである。僕は、これでも、
一般的な人と比べれば、色々なジャンルの本を読んでいるつもりでは
あるが、精神医学の体系の不可思議さについては、悩まざるを
得ない。インフルエンザなら、フランスでも、イギリスでも、
アメリカでも、日本でも、同じ診断が出る可能性が極めて高いが、
精神医学は、そうではない。そこからして、非常に慎重に
進歩していくべき分野だと僕は思う!
DSM-5は、グローバルに診断基準を決定したいという試みであるのは
わかるし、一定程度は成功をおさめているのも認めたい。だが、
弊害も結構あるのでは?という事は言っておきたい。
金融理論については、オープンな議論もあるし、弊害も公然と
語られたりする。だが、精神医学や、また広く医療というものに
関してはどうだろうか?これは、やはり、医療統計が不十分で
あるからではないか…開かれていないからではないか…
家父長的な…いや、もう、言うまい。終わり。
この記事について
このページは、2019年7月27日の午後7時06分に最初に書かれました。
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