チュートリアル徳井氏とADHD

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チュートリアル徳井氏の、想像を絶する
ルーズさ…というのは、ADHDではないか、
という指摘があるようだ。
 
DMS-5に書かれているが、精神疾患の分類
というのは、法律上の免罪を示すものでは
ない。それは司法が独自に行うものだ。
精神科医に意見を求める事はある。
 
徳井氏は、個人としては相当の額を稼いで
いたように思う。それは、彼個人の
事務処理能力を陵駕するものだったのだろう。
 
アメリカの調査で五人に一人はADHD…発達障害
である、とも言われる。だが思う事がある。
 
人間の脳の処理能力に合わせて、この現代社会が
作られた訳ではない。そう思うのは、
需要と供給の経済原則に幻想を見ているに等しく、
 
現代社会が、ある一定以下の脳の処理能力の
ある層に対してオーバーした処理を要求する
事は有り得るだろう。だからこそ、専門職が
成立する。いや、「職業」が、と言っても
良いだろう。分業の社会である。
 
現代社会に適応できないから精神疾患である、
とする精神医学には僕は懐疑的であるし、
さりとて、精神疾患は存在せず、人間を阻害する
現代社会の方が悪い…というのも極論に過ぎる。
 
分裂気質が「在り難さ」、発達気質が「為し難さ」
とするなら、徳井氏の「特性」は「為し難さ」で
あろう。「為し難さ」でも空気の読めるタイプと
読めないタイプがあるように思う。これがADHDの
多様性を広げている。
 
また、性格の問題もある。臺弘の「誰が風を見たか」に
あったが、かつての精神疾患は抑制的で内省的な
患者が多かったが、昨今はその逆になっている…
という話があった。ADHDが現代の病、とされるのは
この指摘からも頷けるところで、徳井氏が仮に
ADHDであったとしても、享楽的で対外的な気性を
律する理性があったとしたら、こんな事には
ならなかった。
 
人間は変わる事ができるし、ADHDの人間であっても
努力と工夫で、常人以上に社会に適応するケースは
数多くある。何でも「脳」のせいにするのは、
運命論が科学の顔をしているだけのように僕は思う。
楽しい事しかできない、何故ならADHDだから、
というのは、法律の前では無力で、せいぜいが
「悪意はなかった」とされるぐらいだと思う。


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