検閲を通らない芸術…というのをやりたければ、
それなりにやり方を考えないといけない。
あいち芸術祭での
「検閲」は、出し方や出す場を工夫すれば
回避はできた問題のように思う。
センシティブなテーマであれば、
小さな展覧会を続けて、アーティストと市民の
対話や議論を続けながら、地道に草の根的に展開して
いけば、様々な解釈が得られただろうが、
(こういうやり方にも異論はあるかと思う)
大きな打ち上げ花火を上げてしまったので…。
検閲はあるし、芸術は無罪で常に開かれ、
大衆に見せられなければならない…というのは
建前も建前で…やはり検閲もあれば、
圧力もある。
検閲と戦う事自体が、芸術のパフォーマンスの一部にも
なっていて…その実、騒がれた割に大した事がない…
というのも歴史の語るところ…。
検閲、圧力と拮抗するところまでが芸術であると
するなら、あいち芸術祭のアートは成功していると
いえるだろう。問題になっているのは、現代アートの
枠組であるように思えるので、尚更であろう。
言うまでもない事だが…。
検閲も圧力もない世界を望んではいけない。
それでは、芸術やアートが権力になってしまう。
苦しい戦いであっても、拮抗していて不安定なのが
望むべき状態なのかと思うのである。
この記事について
このページは、2019年8月7日の午前4時59分に最初に書かれました。
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