笑いと権力がが癒着しているだの、といった論が
最近見られる。いわゆる「芸人ピエロ論」で、
芸人というものは、権力を風刺しなくてはいけない、
といったものだ。
まず、第一に…。権力を芸人等が自由に風刺できる
ような時代というのは、日本であれば戦後であって、
国家によってはそれが不可能な国家がいまだにある、
という事。この時代性。
第二に、日本のローカルな状況からいえば、1980年代に
ポップな笑いが、1990年代に不条理・シュールブームが
漫画、及びテレビの笑いにおいて起きて、
「権力を風刺する笑い」というもの自体、飽きられて
ひとつのジャンルに納まってしまった…という事。
「権力を風刺する笑い」というのが、ひとつの正義、
ひとつの権力となってしまって、そういうものに対して
カウンターのカルチャーとして、ポップな笑い、
不条理な笑いというものが出てきたように思う。
「笑い」とはあくまで文化的なものであって、
文化の中での、抗争というものもまたあるのだ。
「権力を風刺せねばならぬ」というのもまた、
硬直性であるように思う。
権力の風刺、というものに、万能性を見過ぎているように
感じるのも気がかりである。天安門事件を中国共産党が
どう扱ったか、という事を考えてみると、
日本において「言論弾圧」だの、「特高警察」だの、
というのは本当に寝言でしかない。日本では、既に権力に
対する風刺は行われているし、それが検閲されているという
事はないように思うのだが?
完全なフリーハンドで、権力に対するあらゆる風刺を
許す事が健全な国家だ…というのは極論であって、
それは一種のファンタジーのようなものである。
権力を風刺する笑いを好まない視聴者が悪い、といった風にも
聞こえてきて、どんなセンスを支持するかは、視聴者、読者の
自由だ。
かように、そういう見え透いたストーリーに乗っかって
しまうのはしょうがないかな、とも思う。
あの時代のあの立川談志に、今の人たちが勝とう、と
思っても、許されるものではないからだ。
同じ事をしてもしょうがない、という視点がまずある。
文化内抗争である。
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