Kibun

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気分がだいぶ、落ち着いてきたのは、
コミュニティの体育部の仕事から、完全に離れる事が
できたからのように思う。
 
以前、ここでも、ちらと書いた記憶があるが、
納涼祭の屋台の機械を二台、持っており、
それを年一回、貸し出す事になっていたのだが、
 
次の納涼祭からはそれを、なしにしてもらい、
屋台の機械の方は、さるところに寄付する
事にしたのであった。
 
あまり、寄付がどうとか、言いたくはないのだが、
自分で機械を持っている…貸出可能である…というのが負担で
あり、屋台の機械がある以上、それを貸し出して、
わからないから手伝ってくれ、と言われるのは必然で
あり、それをとば口として、フォローしてくれ、
あれしてくれ、これしてくれ、となるのは目に見えて
いた。
 
在宅介護の生活が続いていた時は、生活の出口が見えず、
体育部の仕事をライフワークにするのもむべなるかな、
とは思った。どうせやるならば、ある程度は頑張りたいと
思ってやってきた。しかし…もう、5年以上は前になろうか、
父が入退院を繰り返して、容体が安定しない時期があり、
その時期、あまりに辛いので、自治会長に、体育部を
辞めたい、と申し出をしたところ、見事に断られてしまい、
それから、疑念の火種に火が点いた。結局はそれからも
続ける事にはなるのだが、辞める、という事を宣言すれば
するほど、一方では辞めさせてもらえず、一方では影で
こそこそやるなと言われ、まるで、奴隷が穴を掘った後に
何故穴を掘った、埋めろ、と言われているような心境となり、
はっきりと正面から、コミュニティの事務所に、体育部を
辞めます、異論は認めない、と宣言した。しかし、まだ、
屋台の機械が残っており、それが僕の中で不安の材料と
なっていたように思う。理由はわからないが、だんだん、
家に置いてある、屋台の機械を見るのが嫌になってきた。
 
さて…話は逸れたが…約束を取り付け、さるところの方が
家に来た。
 
機械を寄付する事になり…一台の機械は、そのさるところの
男性が積み込んでくれた。もう一台、それは、僕がやっていた
屋台の機械であった、僕は、それを、自分で積み込んだ、
今までありがとう、と思った、機械に対して感謝の念が
沸いた、まるで里子に出すようだ、という思いに至った
ところで、目頭が熱くなった。それを言葉にしてしまったら
本当に涙が流れてしまう、と思った。


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