SNSを見ていて、最近思うのが、
「言葉の綾の抽象論」だ。
慣用句、定型句、定説を最初に提示して、
それに自説、持論を導くやり方だ。
例えば、
日本ではなぜささいなことで炎上するのか?日本は不寛容社会なのか?
いや、突き抜けた人が少ないだけでしょ。みんな慣れてないだけだと思う。炎上や変人や普通じゃない人やことに。
— Yusaku Maezawa (MZ) 前澤友作 (@yousuck2020) October 17, 2019
論旨としては、
(1)些細な事で炎上する日本は不寛容社会か?(=定説)
(2)いや違う。意見の対立自体に慣れておらず、変人が少ない(=自説)
僕だってそうだから、全く人の事は言えないのだが、
言葉の綾…というものに、言葉を更に重ねていくという、
まず思う事が、
(1)変人が多いと言われるアメリカでも炎上はあり、意見の対立はある
(2)日本特有の現象ではない
(3)故に”日本では”と限定する必要がない
(4)そうなると、日本を貶めてグローバルな存在である自分を上げる意図を
疑ってしまう
会話として…会話としては、別に有り得る論旨の展開だ。
もし対面でこのように聞いたら「ふーんなるほど」としか思わない。
前澤氏も話し言葉で書いている。実に他愛のないツイートなんだけれども、
本当に炎上する理由というのが見えてきて、
他愛のないツイートが公衆に晒されるから批判される
それ以外になく…。会話としては許容され得るものが、”テクスト”として
鑑賞、批評される事の悲劇、という他ないのではないだろうか。
故に「言葉の綾の抽象論」が繰り返されるのだ。終わりなき会話だ。
ただの他愛ない会話のフレーズでしかないツイートを、じっくり繰り返し
賞味するというのはどうだろうか…。
「いいね」を沢山貰ううちに、何気ない自分のツイート全てに価値がある
と思ってしまうインフルエンサーにも責任はあると思う。故に、本当は他愛ない
何気ない自分のツイートを否定されると嫌な気分になってしまうのだ。
そして、炎上を眺めている僕たち外野も、知らないうちに、その構図に
加担してしまっている。このあたりの夢から、みんなして醒めてしまえば、
炎上はなくなると思う。
あまり気の入っていないツイート、発言というものは、自分の魂から
切り離して、撤回するなり忘れるなり謝罪するなりしていかないと、
人は生きてゆけない。
現実においてそうしているように。他人の言葉、自分の言葉、そして行動、
これらを関連付けしてしまうのが人間だが、その回路を疑う必要がある。
過剰な関連付けは、精神衛生上良くない。他人、他者に対しての関連付けの
批判の刃は、内省的になった時に自分に向かってくる。
この記事について
このページは、2019年10月17日の午後2時58分に最初に書かれました。
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