言葉の綾の抽象論

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SNSを見ていて、最近思うのが、
「言葉の綾の抽象論」だ。
 
慣用句、定型句、定説を最初に提示して、
それに自説、持論を導くやり方だ。
例えば、
 


 
論旨としては、
(1)些細な事で炎上する日本は不寛容社会か?(=定説)
(2)いや違う。意見の対立自体に慣れておらず、変人が少ない(=自説)
 
僕だってそうだから、全く人の事は言えないのだが、
言葉の綾…というものに、言葉を更に重ねていくという、
 
まず思う事が、
 
(1)変人が多いと言われるアメリカでも炎上はあり、意見の対立はある
(2)日本特有の現象ではない
(3)故に”日本では”と限定する必要がない
(4)そうなると、日本を貶めてグローバルな存在である自分を上げる意図を
  疑ってしまう
 
会話として…会話としては、別に有り得る論旨の展開だ。
もし対面でこのように聞いたら「ふーんなるほど」としか思わない。
前澤氏も話し言葉で書いている。実に他愛のないツイートなんだけれども、
本当に炎上する理由というのが見えてきて、
 
他愛のないツイートが公衆に晒されるから批判される
 
それ以外になく…。会話としては許容され得るものが、”テクスト”として
鑑賞、批評される事の悲劇
、という他ないのではないだろうか。
故に「言葉の綾の抽象論」が繰り返されるのだ。終わりなき会話だ。
ただの他愛ない会話のフレーズでしかないツイートを、じっくり繰り返し
賞味するというのはどうだろうか…。
 
「いいね」を沢山貰ううちに、何気ない自分のツイート全てに価値がある
と思ってしまう
インフルエンサーにも責任はあると思う。故に、本当は他愛ない
何気ない自分のツイートを否定されると嫌な気分になってしまうのだ。
そして、炎上を眺めている僕たち外野も、知らないうちに、その構図に
加担してしまっている。このあたりの夢から、みんなして醒めてしまえば、
炎上はなくなると思う。
 
あまり気の入っていないツイート、発言というものは、自分の魂から
切り離して、撤回するなり忘れるなり謝罪する
なりしていかないと、
人は生きてゆけない。
現実においてそうしているように。他人の言葉、自分の言葉、そして行動、
これらを関連付けしてしまうのが人間だが、その回路を疑う
必要がある。
 
過剰な関連付けは、精神衛生上良くない。他人、他者に対しての関連付けの
批判の刃は、内省的になった時に自分に向かってくる。


この記事について


このページは、2019年10月17日に最初に書かれました。
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