京アニと。

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京アニの事件に事寄せて、いわゆる「終わりなき日常」論で
炎上したというニュースを見て、考える事もない訳では
ない。
 
僕はかつて、沼津においての聖地巡礼の展開について、
かなり批判的な意見をこのホームページで書いた事がある。
 
今、どう思っているか…と問われれば、聖地巡礼も含めて、
「地方創生」の展開について、構造について、問題がないという
訳ではない…というように思っている。
 
僕が現在、問題に感じている事が、精神医学と、それについての
行政や社会の関わり方であり、まあ、人の生き死にや人生に
それほどクリティカルでない、地方創生という問題についての
優先順位は下がっている。
 
アニメーションが現実逃避だ…という論はあるが、
それなら、かつての劇画ブームはどうだ?時代劇ブームはどうだ?
と思ってしまう。男性主義的な逃避なら○、萌え的なら×、
というようには全く思えないのである。
 
ただ、それが、現実の都市と融合するという事、
街がテーマパーク化、地球がテーマパーク化する事については、
ジョン・アーリの論ずるところをヨスガとして、論じてはみた。
 
終わりなき日常を生きられるのであれば幸福であると思うし、
何らかの、家庭、組織のアクシンデントでそれは終わる、
オタクだって会社を解雇されるかも知れない、京アニの事件は
どうあれ、そんなものはとうに終わったのは僕らは
わかっているのである。
 
そもそも、宮台真司が論じた時の「終わりなき日常論」は、
宮台氏が持つ、大衆や社会のかなり漠としたイメージであり、
どんな「安定成長」の時代にも、個人個人は、安定と不安定の
中を生きてきた筈なのである。となると、今の日常が永遠に続く…
と信じておれたのは、あくまで、若い時代の、青春時代の夢で
あって、警鐘を鳴らさずとも、みな、自然と、社会に出て
生きていく。非正規雇用の増加と終わりなき日常論を接続する
向きもあったが、非正規雇用の増加というのは、労働者の希望だけ
でなく、あくまで雇用を出す企業側の方針あってこそである。
 
グローバルな企業の動向として、固定費の人件費を減らしたいという
流れがあったので…。そこで昨今、社会学にも反省があって、
経済学的な視点を、社会学に持ち込もう、という動きが出てきた。
昨今、翻訳書で売れるその手の本には、経済学的な視点や、
他の学問の視点をミックスしているものが、世界的に売れたり
する。
 
だので…今更、「終わりなき日常」論を出したとて…恥をかくだけ
ではないだろうか。


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