1955年

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「先生が捕まるらしい」-書生のYからその話を聞いたのは、或る春めいた午後の事でした。私が出前の丼を定食屋に返しに行きしな、煙草屋の角で書生のYが、顔面蒼白で立っているのです。
 
「君、どうしたんだ」
「どうもこうもありませんよ。Z先生が、警察に包囲されているのです」
 
Yの話では、先生の庭付きの一軒家に、警察官が押し入って、部屋で、じっと先生をぐるりと囲んで、それはもう凄いプレッシャーだそうです。僕は、何で先生がこんな目に遭うのかと思いました。
 
「それじゃ君、直ぐに応援に行かないといけないナ」
「いけません。それはいけません」
 
書生は、頑として、私の応援を拒みました。じゃあ、遠巻きに見る分には良いだろう、と提案してみたのですが、それも駄目だと言います。
 
「どうして君、先生はそんな訳になったのだ。その理由ぐらい教えてくれたって良いじゃないか」
「ヒロポンですよ。ヒロポンを先生がやったのですよ」
 
僕は、この書生が何を言っているのか解かりませんでした。ヒロポンであれば、薬局で処方してもらえば、その日の内に出るし、僕なんかも薬局でヒロポンを貰う事は良くあります。それを書生に言いますと、
 
「じゃあ、応援に来ても良いです。先生の身代わりになってくれますか」
「どういう事だか解らないが…」
 
僕と書生が先生の一軒家に行くと、言う通り、警察官、四、五人が、庭で煙草を吸っています。随分と吸い殻が捨てた儘になっているものだから、僕が注意しますと、
 
「あんたは先生の弟子か」
「そうだ。あなた方、何の了見でこんな事をしているのだ」
「俺たちは、警察官だ」
「それは見れば解かる」
「ヒロポンを、やったら、御用だ。先生は今、ヒロポンを我慢している」
「あんたら、よっぽど暇なんだな」
 
僕と書生が先生の部屋に上がりますと、警察官二人と、医者が、先生の方をジッと睨んでいます。鬼のような形相です。書生が、医者に包み紙を渡しますと、医者は、まんざらでもないといった風に部屋を出て行きました。
 
「先生…」
「君たちか。僕は、もう、駄目だよ。ヒロポンを我慢できないんだ」
「先生、ヒロポンをおやりになったら宜しいじゃないですか」
「君たちは、新聞も読まないのか。ヒロポンは、禁止になったんだ。つい先週な」
「知らなかった…!僕、昨日、薬局でヒロポンを買いました」
「薬局の連中も新聞を読んでいなかったのだろうな。兎に角、僕はもう駄目だ」
「…」
「ヒロポンを我慢できないんだ」
 
先生の眼の色は、まるで古い障子紙のように黄味がかっていました。電燈に、大きな蛾が飛び回っています。こんな時だから、蛾を追い払う事はできません。蛾の鱗粉が、はらり、はらりと座卓の上に落ちます。書生は、さっき医者に渡したよりも大きな包み紙二つを、警察官に渡しました。警察官は、わざとらしく、如何にも戸惑わない風に、警察手帳を捲ってみたりして、
 
「どうも、どうも」
 
なんて言って、出て行ってしまいました。とりあえず、先生も僕たちも助かりました。先生は、疲れたからもう寝る、と言って、何かブツブツ言いながら部屋を出て行ってしまったのでした。
 
「君、一体、彼らに何を渡したんだ」
「あれですか?あれは、コカインですよ」
「駄目じゃないか」
「持っているだけなら良いんです。警察官だって、持ちたいでしょう」
 
とんだ馬鹿な書生だと思いました。そう言えば、出前の金を払うのを忘れていました。所在もないので、僕は、わざとらしく、「忘れた!」と叫んで、玄関の方へ飛び出しました。その風圧で、蛾が誘い出されて、廊下から玄関の方へ飛んでいきます。けがわらしい蛾です。書生は、
 
「冗談ですよ。あれはコカインじゃないです。あれはシンナーですよ」
 
と僕の背中に向かって言いました。僕は、ああ、と生返事をしながら、どっちにしろ駄目じゃないかと思いました。


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