ヒトラーのコイン

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「お兄さん、ヒトラーのコインあるよ」

僕がガスメーターの検針を始めて一日目、ラーメン屋のガスメーターを探すために、建物の隙間に入っていこうとした時、背後からそんな風に声をかけられた。僕が振り向くと、黒いセーターにジーンズ、丸い眼鏡をかけた小太りの男が、こっちを見ている。

「はい?」

男は、無表情のまま、

「ヒトラーのコインあるよ。プラチナのコインあるよ」

と、言った。ここは昼間の飲み屋街で、人通りがない訳ではない、しかし人の切れ目というのはあるもので、その切れ目に僕がたまたまここに居た、そしてこの小太りの男は、僕にヒトラーのコインを売りつけようとしているのだった。僕はあまり相手にしたくはなかったが、ガスメーターの検針なんて、職業安定所に言われて、仕方なく、三日だけ、職業訓練として仕事を卸されたのである。一日目にして、もしサボったり、辞めてしまったりすれば、あの職業安定所の、やはり小太りのオッサンは、僕を叱りつけるだろう。

「お兄さん、安く譲るよ。欲しいでしょう?ヒトラーのコイン」

「はあ…」

僕が、曖昧な応答に終始しているのは、ヒトラーのコインを欲しい訳ではなく、この腐った、無職紛いの生活を切り裂くナイフが欲しかったからだった。無頼への憧れである。僕は、踏み出してみる事にする。

「どこにあるのよ」

「来る?来るなら、この先のビル」

小太りの男は、ゆっくりと歩き出した。無理矢理、僕を連れていこうという風ではなく、あくまで、ついて来るならついて来いと、そんな要領で、横目で僕の姿を見ながら、のろのろと歩く。雑居ビルのエレベーターに乗り、汚い部屋の薄汚れたソファーに座らさせられる。小太りの男は、

「ちょっとトイレ行ってくるね。お兄さん、ゴメンね、下痢なのよ」

ブヒッ、ブヒブヒ。排泄のリズムは、不定形で、まるで魔法みたいだった。いや、よそう、そうじゃない、とても吐き気を催すものであった。僕は、何だろう、本当に嫌な気がしたんだ。


男は、戻ってきて、ヒトラーのコインを取り出した。銀色で、ヒトラーの横顔が描かれている。裏はナチスのマークだ。僕がナチスに興味あるかって?とんでもない。僕は、言ってやった。

「でもね、要りませんよ。こういうのは好きじゃない」

男は、温かいお茶を淹れてくれた。そして、身の上話を始めた。僕はてんで聞いていなかった、部屋の片隅にある、抽象画をずっと眺めていた。男は、ひとしきり、独り言のように話を続け、そして終えた。

「…そういう訳よ。ヒトラーのコインなんて、どうだって、良いのよ」

どうだって良い、という部分だけは、僕は理解する事ができた。30分は過ぎた。僕は、そろそろ、ガスの検針に戻らなくてはならない。

「そろそろ、おいとまを…」

「残念ね。また、欲しくなったら、ヒトラーのコイン、見に来てね。そうそう、さっきの話の、金メダルね、金メダルは来週入るからね、少ないけれども、これ、とっておいてよ」

男は、僕に、寛永通宝?を二、三枚、くれた。さあ、ガスの検針に戻らないといけない。どうせ、今時は全部スマートメーターだ、こんな形式的な仕事は、ただ、検診の針を見て、端末でタップするだけの仕事だ。こんな寄り道も悪くなかった。

数日後、職業安定所で、僕は、小太りのオッサンに、3万円を給与として貰った。この3万円じゃ、ヒトラーのコインは買えそうにないけど(値段も教えてくれたが、僕はすっかり忘れてしまった)、そのうち、またあの男に会ったら、今度は、どうしようかな、でも、やっぱり、ナチスのコインは要らない。


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