傍観者

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小説 「傍観者」

A棟、B棟、C棟の三棟からなるこの施設には、私の他、10人の作業員と、監督1人、女中5人、守衛2人、アルバイト5人、老人1人、住人20人、そして犬が1匹いた。私は、総監督として、この施設の組織を率いている。A棟には住人が住み、B棟には仕事場、C棟には私たちの寮があったが、地下への道は封鎖されている。それほど大きくないこの施設ではあるが、地下への階段の踊り場には、いつも守衛が立っていて、私たちが近づくのを拒んだ。

A棟に住む住人は、それぞれ1LDK、2LDKほどの部屋をあてがわれ、そこから買い物に行ったり、仕事に出かけたり、学校に行ったりした。施設には門限がなく、夜中に酔って帰ってくる住人もいた。施設全体は、あじさいの植え込みによって囲われて、おおよそ300坪ほどの大きさ。よく整備されたスペースは、アルバイトによって掃除され、手入れされた。よく働くアルバイトで、我々の作業を手伝う事はしなかったが、女中と連携してこの施設を非常に快適に保った。

犬は、これもまたよく飼い慣らされた犬で、老人がこの犬の面倒を見ていた。老人はこの施設ができた時からここにいるらしいが、それ以上の事はあまり話そうとはしなかった。私がここに赴任してきた時、老人は、私にこう言った。

「やあ。君が新しい総監督だね。ここでの作業は、とても楽だよ。しっかりと、定年まで勤め上げるが宜しい」

老人が言うように、ここでの作業は非常に楽なものだった。その作業についてはあとで述べるとして、監督が主に具体的な作業を統括し、指揮指導するため、私の仕事は日報・週報・月報に目を通す事、朝礼で訓戒を述べる事、それくらいである。本部との折衝も監督や作業員が行うため、私はお飾りのようなものだった。しかし、監督以下作業員は、私に対し親しみと敬意をもって接し、女中や守衛、アルバイトも気さくであった。住人も、私が総監督である事を知っているため、にこやかに会釈する。

私に対して高圧的なのは、地下への階段の踊り場にいる、守衛だけだった。ここでの、伸びやかな生活の中で、その守衛だけが、重石のようにそこにあった。守衛ははっきりとした顔立ちをしている。もう一人の守衛は、施設の入り口に立っており、穏やかな顔をしている。施設の入り口には簡易な守衛室があった。階段の前の踊り場には、左脇にドアがあり、そこにその守衛の部屋があるようだった。施設の入り口の守衛の仕事は、老人やアルバイトのうちの一人が交替してシフトを組んでいるようだったが、階段のところの守衛だけは、時々仮眠を取りながらも、ほぼ休まずの体で、いかめしい守衛が番をしているのだった。

いかめしい守衛は、ラジオを聞くのが楽しみなようで、ちょくちょくラジオを聞いていた。地下への踊り場というのは、C棟の給湯室や食堂がある廊下をずっと奥まで行き、L字に折れた先にあるのである。ある種隔離されているのだが、L字に折れたあとの部屋に、総監督の古い書類、専用の小道具・大道具、整理すべきもの、整理するか不明なもの等が置いてあり、総監督である私は、この地下への踊り場へ近づく事が多かった。

そのうちわかった事だが、さすがにいかめしい守衛も不眠不休の番とはいかないのであろう、女中と交替、協力して、その地下への道を封鎖し続けている事がわかった。それとなく女中に聞いてみたのだが、食事などを運びがてら、会話する事もあるし、ゲームをする事もあるらしい。また、非常に目立たない裏口が隠してあるようで、いかめしい彼は夜中に女中と交替し、そこから、外に出て人に会ったりする事もあるようだ。いずれにせよ、あまり休んでいるようには思えなかった。

私はいつも、その守衛を気にしていたわけではない。私はこの施設の王のようなもので、日常的な業務は皆、部下がみなやってくれる。そうすると非常に退屈をするのだが、C棟には娯楽室があり、喫茶室があり、音楽室もあった。C棟はやや古いけれども、しっかりとしたつくりの4階建て屋上付である。1階には食堂、倉庫、風呂場、洗濯室などがあり、2階と3階は私以外の労働者の寮となっている。そして4階には私の部屋と、それらの楽しい部屋があり、私たちは、休日や仕事終わりにはそこで時間を潰すのであった。C棟の部屋の設備は、外部の出入り業者によって完璧に保たれた。

外出は禁じられていないが、私はそこで時間を潰す事が多かった。私の部屋にだけ、トイレと風呂がついている。しかし私は皆と一緒に1階の共同浴場に入る事が多かった。私は山城という名前だが、
「ヤマさんが来てから、ここはとても良くなりましたよ」
「いやあ。僕なんて、何もしてないから」
「いやいや」
などと、風呂場で会話するのが楽しみであった。私はかつては結婚していたが、妻に先立たれて独り身であった。すっかり独り身に慣れてしまい、また妻を今でも愛していたので、今更結婚しようという気はあまりなかった。休日は外出する事もあり、そこでは女友達や同級生と会う事もあったが、結婚という流れにまでは至らない雰囲気であった。私の事を好きでいてくれる女性がおり、あわや結婚という交際にまで発展したが、亡き妻の事が吹っ切れず、そのままの付き合いが続いている。

総監督の仕事として、実務的な仕事がないかわりに、この施設を温かく見守るという仕事があった。その範囲であれば、何をしても構わない。私は本来内向的な性格であるので、B棟での見守りの仕事半分、残り半分は、A棟の住人とのコミュニケーションや、C棟に出入りするメンテナンス業者とのコミュニケーション、手伝いなどをした。私の仕事を評価する人もいないし、何か批判される事もない。これほど自由な立場はなかった。給料は手取りで60万円得ており、ボーナスもあった。それでもここの人たちは、私をやっかむ事はない。

さて、この施設の作業というのは、映像や写真の撮影であった。オーダーメイド、パッケージ、両方扱っている。B棟とはその撮影現場であった。時には、C棟の娯楽施設を援用して撮影する事もある。私の直属の部下の、「監督」は、そのための監督であり、撮影に精通している人物であった。いわばこの施設は、技術部であり、私の正式な肩書は「井上映像株式会社 映像技術部部長 山城親太朗」である。俳優を使う場合は、外部から人がやってくる。作業員たちは、カメラを回したり、必要な素材を調達したり、コンピュータを操ったり、エキストラとして登場したり、特殊メイクを施されてカメラで撮られたりしていた。

基本的な業務は全て監督が行う。オーダーメイド案件は、必ず監督が責任をもってやるのだけれども、パッケージ商品については、総監督である私が、手すきの時に作業員を使って作る事ができた。私が何の気なしに作った面白映像や写真が、トルコやエジプトで非常に売れるらしく、私が総監督になったのは、そういう強運の巡り合わせもあった。監督が言うには、私がかつて手がけた映像や写真によって、井上映像はヨーロッパ、イスラムへの販路を獲得したのだ、という。私は一応は美大で映像を学んだけれども、映像だけでなく手広く活動していたため、実は映像や写真に関して強烈な専門性があるわけではなかった。

しかし、私が少しずつ手がけている映像・写真は、トルコやエジプト、南欧を中心としてよく売れるらしく、会社からは「ヤマっさんはあくせくしないで、作家のように泰然としてですね、ゆっくり作って下さい」と言われている。私は自分の才能にはあまり自信がなく、この幸福的な展開は一体何なのだろうか、と思ったものだ。その言葉に甘えて、何でも部下に権限移譲してしまい、実務上はお飾りのようになっている毎日であった。平和そのものである。

そんな日々が続き、ある日、チョムスキーが訪ねてきた。チョムスキーは、会社本部のロシア人の取締役である。
「チョウさん、お久しぶりです」
「嗚呼、君だ、元気ですか」
チョムスキー、愛称チョウさんは日本語が達者で私と親しい。チョウさんは、何となくぼんやりしているようだった。そして出し抜けに、
「フィナーレだよ。地下は嫌いかね?」
意味が不明だったので、苦笑して私は少し不安になり、
「どういう事ですか?」
と聞いた。遂に降格、左遷されるのかと思ったのである。

「うん…。ちょっと、立場が苦しくなってね。この施設に地下があるだろう。そこに、”何かある事”を確認してもらいたいんだ。一応、本部からの手紙を持ってきているから、守衛も通してくれるかも知れない。だけど、通してくれないかも知れない」
「フィナーレとは?」
「ううん…。実は私にもよくわからないのだが、そのような言葉が思わず口を衝いた。君にはわかるかね」
「チョウさん、何となく、わかる気がします。不安な事には変わりませんが」
「この案件には、いわば、予感めいたものがあってね」

チョウさんはそう言うと、肩をすくめた。チョウさんも、地下への踊り場までは立ち会ってくれるが、あとは一人で地下まで行かねばならぬらしい。私は手紙を受け取って、すぐにC棟へ向かった。この愛する施設の人々は、みな、そんな事は知らずに、幸せそうな顔をしている。これからどうなってしまうのだろうか。チョウさんは脇をしっかりと締め、鉛の足の足取りで私の横を歩いた。そうすると私も何だか陰鬱な気分になるのだった。

C棟に入り、そのまま食堂の横を抜けて、奥の踊り場へ向かう。食堂は丁度、誰もいない時間帯であり、しーんと静まり返っていた。蛇口からの水滴の音すら、聞こえない。この角を曲がると最後の廊下である。チョウさんは何も言わなかった。そして地下への階段前には、守衛が、真面目な顔をして立っていた。緊張が走る。我々を確認すると、微動だにせず、声をかけた。

「何か?」

チョウさんは、本部からの手紙を守衛に渡した。守衛は、しっかりとした手つきでその手紙を開封し、黙って書面に目を通した。私は書面に何が書いてあるか気になったが、丁度見えない角度でありその表情から何かを推し量る他なかった。守衛は、全く表情を変えずに手紙を見、そして溜息をついた。少し、眼が潤んでいるように思えた。守衛は、そして、笑った。いかめしい顔を使って、何とも美しい顔で微笑んだのである。

「ヤマさん…。今まで、ご無礼を致しましたが、今日のこの日で許して下さい…」
「え。あなたは何かご存じなのですか」
「それは申し上げられないのですが…」

チョウさんは、ゆっくりと息を吐いて、語り始めた。

「ヤマくん…。君は、地下への階段を降りて、地下の世界を見てきてほしいのだ。我々には、地下の世界に行く事はできない」

私は何か冗談を言っているのだと思った。すこし下品に笑いながら、

「ひゃっひゃっひゃ。おかしい、おかしい。スタジオ施設の地下が、何ですか?」

チョウさんと守衛は、私を見て、再び、共に静かに微笑み、

「兎にも角にも、地下への階段を降りなければなりますまい。守衛さん、バッグを彼に渡して下さい」
「バッグ?」

守衛は、守衛室に戻り、金庫の錠を手早く解除し、中から茶色の革のバッグを出した。そしてそれを私に渡し、

「これをお持ちになって、地下への階段を降りて下さい」
「地下への世界とか、バッグとか…。まるで広いみたいだけど、そんな事があるかね。確かにこのあたりは郊外だけれども、そんなにねえ」

私は愚図っていると思われるのも嫌だと思い直し、さっさと地下に降りる事にした。すると、刹那、守衛とチョウさんは、目を潤ませて、万歳、万歳と叫び始めた。よくわからない冗談の世界であったが、私はもう相手にせずに階段を降りた。階段を降りた先には、またドアがあり、ドアノブをひねって私は部屋に入った。

部屋は、まるで地下の駐車場のような広さだった。天井も、トラックは無理にしてもちょっとした車だったら止められそうだ。200坪くらいはあろうか。ただ、コンクリートでできた、漠然と広い空間。コンクリートの床は、ただ漠然と広がっていて、少し恐怖を感じる。しかし、常夜灯のように灯りは薄暗いながらも灯され、ここも手入れがされているようで綺麗であり、蜘蛛の巣もゴミもなかった。とにかく調査業務であろうという事で、私はこの部屋をはじからはじまで、くまなく歩いた。少し古いけれども、美しいコンクリートできっちり、造ってある部屋である。ただ漠然とした部屋で、まったくスキもなく、四方八方がコンクリートで塗り固められている。ただ天井には換気口があり、空調設備などが部屋のすみに置かれている。消火器、水道などの設備もあるが、ここから先の部屋は展開していないようだった。

こうやって地下に放り出されると度胸が据わるというか、特に怖いものはなかったが、とっかかりがあるものではないのでどうしようもなかった。私は茶色の革のバッグを開けてみた。革のバッグを開けると、中に巾着袋があった。巾着を開けると、あまり見た事のないような古い銀貨が20枚ほど、金貨が3枚ほどあった。巾着以外には、木の札があり、それは古い手形のように思えた。しかし銀貨があろうと手形があろうと、この地下室には何もない。つまりこの部屋で私と交渉したり、歓談したり、対立したりする相手はいない。これらもまた、何の役にも立たなかった。せめてバッグの中に鍵でもないか、と思ったが、どこをどう探しても他には何もなかった。

忍者屋敷のように、見た目、何もないところに隠し口があるのではないかと思い、もう一度、よく調べてみた。消火器の裏を調べてみたり、空調設備を見てみたり、水道の蛇口をひねってみたりした。壁に薄いところはないか…と思ったが、特に違和感のある部分はない。壁を触っているとコンクリートでひやりとする。万事休すである。それとも、これでいいのだろうか。私が地下に降りる事に意味があるのだろうか。井上映像の仕事自体が、クリエイティブ産業という事に加えて独特のおかしなところがある。私は、もう少しゆっくりしてから、階段を戻る事にした。

ここで、私は思い立った。もしかして、この部屋は関係なく、階段の途中に何かあるのかも知れぬ。守衛のいるところから、階段を経て、この部屋に入る。その階段のところに、何か、隠し口があるのかも知れぬ。私は再びドアノブをひねり、階段の部分を調べてみる事にした。

改めて階段の部分を調べてみると、薄くほこりが積もっており、小さなゴミも落ち、少し蜘蛛の巣も張っている。ここで私は不思議に思ったのだが、あの地下室は美しく保たれているのに、どうして、この地下への階段には、私以外の足跡がないのだろうか?この地下室をメンテナンスするのに、一体何処を通るというのだろう?とりあえず階段の部分を調べてみたが、階段も、壁も、ドアの周辺にも何もなく、平凡な地下への階段というべきところであった。上階の守衛室から、チョウさんと守衛が歓談している声が聞こえてくる。私は馬鹿馬鹿しくなって、上階に戻り、守衛室の窓からチョウさんたちに声をかけた。

「チョウさん。何も収穫あらず、ですよ」
「ひいっ。や、や、や」
「きっ」

チョウさんと守衛は、まるで死人を見たかの如く、酷く驚愕した。そして、息を弾ませて、

「どうしたんだ、君。地下世界への大冒険が、今、始まらんと…」
「何を言っているんですか?ただ地下駐車場みたいなところじゃないですか…」
「…………!」

チョウさんと守衛は、力なく笑った。長年の夢が覚めた、というように見えた。守衛とチョウさんは、物悲しそうに顔を見合わせて、

「ああ!!私は今まで、何を守ってきたのでしょうね。情けないような、おかしいような」
「本当に、君、済まないね。本部もさぞ、がっかりするだろう」

私は何か責任を感じてしまい、もう一度地下へ降りてみます、と言った。

「そうしてくれるかね。まだまだ、探し足りないのかも知れないよ」
「そうです、ヤマさん。悪くても、少なくとも、あなたはもうこの施設で足を踏み入れる事のできない場所は、婦人トイレを除いてないでしょう。それならば、いっそ、何か見つけるべきですよ」
「で、あるなら、しばらく、地下を調査してみる事にします。何かあるような気が、私もします」
「うん。どんな小さな発見があっても、教えてくれ。また、この件については、書類ベースでの報告はいらないからね。頼むよ」

私は何だかがっくり疲れてしまい、食堂で何か食べる事にした。午後から地下を調査して、既にもう夕方になっており、女中が食堂に入っていた。ちょうど5人組のアルバイトの休憩中であって、アルバイトが煙草を吸ってドリンクを飲んでいる。私はアルバイトにおごってやる事にした。ここにはビールもあるが、酒はビールしかない。声をかけ、アルバイトの輪に混じった。

「ヤマさんはここに来てもう2年くらいですか」
「そうだね、2年くらいだね…」

私がおごってやるよ、と言うと、アルバイトの人間はしきりに恐縮したが、私はトンカツ定食をおごって一緒に食べる事にした。ここのトンカツはとてもうまい。しっかりと揚がっているし肉がうまい。ビールを飲みながら、アルバイトと話していると、今日の疲れも取れる気がした。

「そうそう。今日ね、あのC棟の地下室に降りたんだよ」

つい、自然な形で口をついてしまった。一瞬、私はしまった、と思ったが、

「へえ。行った事がないんですか。意外だなあ」
「ん?君らは、行った事あるの?」
「ありますよ。毎週、掃除に行っていますから」

私は少し驚いた。まさかアルバイトが行き来しているとは思わなかった。

「どこから入っているの?」
「この食堂出て、地下室方面へ行きますよね。そうすると、ヤマさんがいつも出入りしている、備品室みたいな部屋ありますよね。そこに、ハシゴがあるんです。見つからないようになっているんですけど」
「………!!」

私は夢中になって聞き出した。つまり、私が大道具や小道具を出し入れしている床の絨毯をめくると、床に一畳ほどの木の扉があり、それを開いてハシゴを降りてゆくのだと。降り立つと、掃除道具がしまってあるロッカーを開ける。他にもその空間には部屋があるが、アルバイトは入る事が禁じられており、そこもかなり広い。まっすぐそこの廊下を進むと、行き止まりに突き当たる。突き当りの壁には、へこみがあり、そこに木の札を押し当てると、突き当りの壁が回転して、私がさっき行った地下空間に入るのだと…。そして掃除道具でその部屋だけを掃除するように、言われているのだそうだ。そうやって守衛をスルーするらしい。

「あ…。でも、その事を、私に話しても良いのか?」
「ええ。聞かれたら答えてもいい、と言われてますので。僕たちもよく知らされていないのです。明日日曜日で、僕ら休みなんですが、一緒に行ってみませんか?」
「うん。私も木の札を渡されているのだが」

私は木の札を見せた。私の木の札と、彼らの木の札は違うらしい。彼らの木の札は新しく、中にはICチップが埋め込まれているのだそうだ。私の木の札は古びていて、如何にも手形といった風、墨書きで何か文字が書かれているが詳しくないので読めない。しかし、何となく、ありふれた手形、木札のように思われた…。とりあえず、朝の10時にロビーで待ち合わせて、行ってみる事となった。

私は久しぶりに、部屋の風呂に入り、湯船に浸かった。地下の「他の部屋」があるのが非常に気になっている。チョウさんや守衛が騒いでいた「地下の世界」のとっかかりが、そこにあるのではないか…と思ったのだ。そうであるとしたら、実に奇想天外な幕開けではないか。鬼が出るか蛇が出るかわからぬが、ここはひとつ腹を決めよう。そう思った。

風呂から出て、喫茶室で酒でも飲もうと思った。これはもしかしたら、地下世界への長い旅路になるやも知れぬ。そう思い、酒とグラスを持って喫茶室へ行くと、アルバイトの長である、横松がいた。横松は酒好きで、ビールを飲んでいた。

「おう」
「ああ、ヤマさんですか。……」

私たちは、言葉少なに、酒を酌み交わした。私はバーボンウイスキーをゆっくりと飲んだ。横松は、戦国武将の武田家の家臣の末裔であるらしく、知性と体力が反映されており、気さくな性格だ。

「ヤマさん…。ヤマさんには好きな人はいますか」

いないわけではなかった。

「いるよ…」

横松は、実に心配そうな顔をしている。

「ヤマさん、あの地下室の調査ですが、あまり真面目にやらん方がいいと思いますよ」
「何故だ」
「ここのお爺さんいますでしょ。犬飼ってる。親戚も井上に勤めているとか…、それよりその人、昔、ここの調査をしたそうなんですが」
「地下室のか?」

横松は、ますます憂いを深め、

「もうね、大変だそうですよ。正に狂気の世界だとか。ヤマさんが昼過ぎに行った、最初の地下室あるでしょ。広い。あそこだって、最初は酷かったそうです。工事をして何とかなったんですが」
「そうなのか?しかし、要領を得んな。君は詳しく知っているのか」
「知っていれば言いますが…。お爺さんが詳しく知っておりますが、あまり語らないのです」

私は、あの老人が、定年までしっかり勤めるが宜しい、と言った言葉を思い出した。このように平和な施設において、ただひとつの闇であり謎であった地下の「世界」。そこに、まるで狂気を掃き集めたかのように、吹き溜まっているとしたら、これ程恐ろしい事はない。

「あのお爺さんね、昔はヤマさんと同じ立場だったんです。そして引退して、次の人になりまして、その人はあまり良くなかったんですよ、そしてヤマさんになりました。何というか、嫌な予感がします。深入りしない方がよいと思いますよ。まあ飲みましょう」
「そうか…」

横松は私のグラスにバーボンウイスキーを注いだ。私は、チョウさんが、フィナーレだよ、と言った事を思い出した。わけのわからぬ世界に巻き込まれて、狂死するような事を暗示しているとしたら、それは嫌なフィナーレだ。この案件のフィナーレ、という事にしたく思った。私も冒険小説に憧れなかったわけではないが、この幸福な生活を失うわけにはいかぬ。私は普通に生まれて普通に死ぬのだ。そして決めた。

「そうだな。あまり、モノを見ないようにしようか。そして、結婚するわ」
「そうした方がいいと思います…」

私は、この案件が済んだら、プロポーズして結婚する事にした。バーボンウイスキーが回ってきて、私は、先に部屋に戻る事にした。横松はまだやるらしい。若い。私は口をすすいで、水を飲み、ベッドに入って5分で眠った。

翌朝、10時のロビーに、横松以下、アルバイト全員が揃っていた。休日なのに済まない、と言うと、アルバイト達は、いえいえ、僕たちも非常に気になる、ヤマさんがいれば調査できない事はないから、この際、すっきりさせたい…と言う。私はそれで吹っ切れ、いざ備品室に向かった。絨毯を剥がすと、なるほど、隠し扉があって、ハシゴが下に向かっている。備品室の灯りだけでなく、下の空間からも光が淡く漏れさし、私たちは難なく地下まで降り立った。

「ふうん。何となく、渋い感じだな。全て木でできているようだ」
「そうなんですよね。このへんは、簡単にしか掃除してないから…へくっし!」

埃が薄く積もっている。そして山小屋、ロッジのような感じで、全て、良い板木を打ち付けてできた空間。天井には白熱灯が灯っている。これは常に点灯させてある。アルバイト諸君が定期的に取り換えるそうだ。そして、まるで山小屋のそれぞれの居室のように、ドアが並んでいる。

「これらの部屋に入った事は?」
「ありません…。開けてみますか?」
「………」

迷ったが、開くかどうかだけ、少し確かめてみよう、という事となった。ドアは、4つある。まず左手前。これは開くようだ。開けずに、そのまま元の状態にした。

「ここは開くようだな。見るのはやめておく」

次に右手前。これは開かない。本当に開かないのか、ドアノブを強く引いたり押したりしてみたが、鍵がかかっているようで開かない。ドアノブには鍵を差し込むところすらない。左手奥、右手奥も、同様だった。つまり、一番近い、左手前だけが開くようである。

「ヤマさん。実は、このドアを開けた事があるんです」
「本当か、横松」
「その時、開けた時は、半畳ほどのスペースがあって、石壁が先を塞いでいました。石壁には」
「石壁には?」
「凹みがあります」

………。もしかして、その凹みに、私がもらった木札をあてがうと、石壁が開くのではないか…と思った。どうするべきか。段々と後戻りできなくなってしまうのではないか。しかし、いざとなったら、アルバイト君の札で、広い地下室の方へ逃げ込めばいいのではないか、と思った。そう提案すると、横松は、

「やりましょうか。何と言っても、たかが、井上映像の施設の、地下室ですから。ちょっと集団暗示にかかってますよ、僕ら。こんなのは大した事ないんです」

そう言って、おもむろに、木札を私から受け取り、凹みにあてた。木札を離すと、石壁は、ゆっくりと、ゆっくりと、上昇して、我々に道を開いたのである。案外、薄い石壁であるな、と思ったが、その先には、レトロなATMのようなものが目に飛び込んできた。再びの半畳スペースである。

「これ、まるで20世紀のATMっていう感じだな」
「そうですね。レトロもレトロですね。スイッチがありますよ。もう入れちゃいましょう」

横松はスイッチボタンを押した。すると、古い機械音が鳴り、ブラウン管に「残り11500$」と表示された。その他、機能としてありそうなのは、タイプライターで押すテンキーとイエス・ノー・キャンセルのキー、硬貨投入口、硬貨排出口。それが、クラシックな佇まいであるのである。横松は、

「写真撮っておきますね」

と、ソニーの一眼レフで写真を撮った。そしてブラウン管を人差し指で触って、

「これは去年、取り替えたものです。ブラウン管だけ」
「知っているのか」
「実は私、このATMまでは来た事があるんです」
「そう、横松さんと一緒に作業しました。本部の人が来て」

そうだったのか。知らなかった。ここまではメンテナンスが許されているらしい。そうすると、私のもらった木札は、汎用的なものか、スペアがあるのか。もしかしたら、単にサイズの合う木札を押し込む事で、道が開けるようになっているのか?また、この作業については、他言無用の念書を書かされており、もしそれを破れば、クビだけでは済まなかった…ようである。

「他に、知っている事はないのか?」
「ATMの事は黙っていて済みません…。でも、ここから先は、僕たち、本当に知らないのです」
「その時スイッチは入れた?」
「ブラウン管を取り替えただけで、スイッチは入れていません。本部の人と一緒に、ここを同時に出て、戻りました」
「石壁は戻るの?」
「レバーを引きます。最初の木戸を開けた右手壁の、金属の箱の中に小さいレバーがあります」
「そうか…。よく話してくれた」

これでは、アルバイト諸君を連れてこなければ、どうにもなったものではない。昨日、食堂でアルバイトに会わなければ、私一人でテンパイになっていたであろう。しかしATMをどうしたら良いかわからぬ。「残り11500$」という表示は何を意味するのか。引き出すのか、入れるのか。私は試しに、100円玉を入れてみた。すると、

「硬貨種エラー。正しい硬貨を入れて下さい」

という表示が現れた。イエス、をタイプすると、再び「残り11500$」と表示された。これはつまり、11500ドルを硬貨で入れなければならないようだ。

「ドルを入れろ、という事か。誰かドルは持っていないか」
「25セントが3枚あります」
と、アルバイトの村田が言う。村田はコイン・コレクターだった。

「村田、その25セントをもらってよいか」
「入れてみましょう」

私は、村田からもらった合計75セントを、投入した。すると、

「75セント?」
と表示。イエス、をタイプすると、
「受付」
と表示。しばらくすると、
「残り11499.25$」
と表示が切り替わった。

11500ドルと言えば、100万円以上である。そんな大金を、このような怪しげな機械に入れて良いものかどうか…。井上映像のこの施設には、撮影用小道具として、大量の、様々なマイナーコインがある。一部、銀貨や金貨もあるが、これは私にはアクセスできず、監督にお願いしないといけない。備品室の金庫にそれらはあるが、鍵は監督が持っている…。それをどしどし入れてゆけば、もしかしたら到達するかも知れない。しかし、それには監督の力も借りねばならぬ。「監督」は、日曜日は、ややこしいが選手として野球をしているのでここにはいないのだ…。

「平日なら、何とかなったかも知れないが…」
「うーん。ブラウン管を交換した時の事なのですが」
「うん、何だ」
「本部の人も、正直、よくわからない、といったようでした。マニュアルを見ながら、手際悪そうにやっていましたからね」
「井上映像の闇か…」

しかし、ここまで来て、何もしなかった…となれば、私の評価は下がるかも知れない。ここまで来たら、クリアするしかないのではないか、と思った。そこで私はふと、チョウさんからもらった鞄の中にある、金貨や銀貨を入れてみたらどうだろう?と思ったのである。銀貨は10枚、金貨は1枚だけあった。もう少しあったような気がしたが、気のせいだろうか。金貨や銀貨を、村田に見せてみた。

「村田。どう思う?このコインは」
「うーん…。何とも言えませんね。少なくともドルではないと思いますよ。かなり古いもののように見えます。でも入れてみる価値があると思います」
「横松はどうだ」
「入れてみましょう!」

私は、まず銀貨を続けざまに入れた。すると!

「5287.22ドル?」

と表示されたではないか。何という高額査定だろうか。また、何という機能性だろうか。どこのものとも思えぬ、古い銀貨を、この古めかしい機械は一瞬にして査定した。イエスをタイプ。「受付」が表示された。しばらくすると、

「シリーズの金貨を続けて投入した場合、コレクタープレミアムが追加で1003.54ドルつきます。お持ちでしょうか」

と表示された。恐らくこの金貨であると思われるため、イエスをタイプし、金貨を一枚、投入。すると、

「只今、再判定しております。60秒ほどお待ち下さい」

と表示。じりじりしながら待つと、「108045.98ドル?」と表示された。金貨だけで10万ドル、1000万円である…。レアな古代か中世の金貨だったのだろう…。イエスをタイプした。すると、ガチャン!と大きな音がして、とても驚いた。そして、

「残額はゼロになりました。お釣りを出すならイエス、デポジットするならノーを押して下さい」

と表示された。私は迷わずノーを押した。直感である。すると、

「デポジットが規定をオーバーしましたので、このATMは解除されました。おめでとうございます。暗証番号を入れて下さい」

私は迷いなく、0000と入れた。すると、

「暗証番号を受け付けました。お忘れなきように」

と表示され、ATMは、床ごと、ず・ず・ず、と静かに、沈んでいったのである。私の1000万コインを返せ…。しかし目の前が開け、その先には、12畳ほどの、これもまた古めかしい部屋があった。少し淀んだ空気がむっと漂ったが、すぐに空気は入れ替わった。風は静かに流れてゆくようになった。地下室の方の換気が効いているのだろう…。

ここはランプ、そして白熱灯によって部屋が灯されており、沢山の箱が置かれている。そして獣臭い。人はいないが、人のいたような気配があり、煙草を吸った後がある。サン=テグジュペリの部屋のような、戦前の空気を保っていた。本棚もあるが、洋書ばかり。アルバイト諸君と共に、この部屋に入ったのである。

「部屋は謎だ。また先にドアがある」
「あのドアはガチですよ。やばいと思います」
「あそこから先が、気違いの世界だな」
「さようで」

横松は、冷静に、写真を撮っていった。私は洋書などを本棚から取り出して眺めていたが、英語の本であっても古い英語なのでよくわからなかった。問題は、この、沢山の箱のように思えた。この箱から気違いが飛び出してくるのだろうか。気違いじみた世界が始まるのだろうか。この部屋に入り、横松が写真を撮った、ここまでの働きで良いのか…。私にはもうどうしていいかわからぬ。一通り、写真を撮り終えて、横松が、

「ヤマさん。この箱を開けてみましょうか」
「鬼が出るか蛇が出るか…。化け物などおりはせんだろうか」
「開けましょう、開けましょう」

意を決し、箱を見渡す。箱は8つあった。大きな木箱である。どうも獣臭いのはこの箱のどれかから出ているようだ。検分すると、中身は驚くべきものであった。まず第一の箱、空。第二の箱、民芸品の数々。異国情緒溢れるが、他愛のないものだ。第三の箱、象牙細工、象牙製品の数々。恐らくは本物の象牙であるらしい。非常に精巧。象牙そのものもある。小箱に入れられているものもあるが、とにかく大量の象牙の数々。第四の箱、刀、弓矢、銃器の類。骨董品のように見える。第五の箱、鎧、衣服。第六の箱、同様に鎧、衣服。第七の箱、薬、身の回りのものなど。そして最後の第八の箱、金貨・銀貨・銅貨の類。これに村田が食いついた。

「うおおおーーーっ。太閤円歩金が10枚。謙信小判が5枚。慶長大判金が10枚。永楽金銭が30枚以上。戦前・戦中の中国の金貨銀貨が大量に。古代ローマの金貨銀貨。これは大英博物館で見た事があるぞ。何億だ、キーキッキッキッキ」

村田は大騒ぎしている。横松が冷静になるように指示し、アルバイトはノートに、それぞれ、何が入っているかのメモを始めた。村田も冷静になりつつも、興奮気味に何があるかを記している。大雑把にでも報告するためだ。横松は個々のものを撮影し始めた。やはりバイト諸君は訓練されている。

アルバイトが作業しているところを眺めながら、私は、一種の茶番めいた、予定調和のような感覚をおぼえた。美術史などを大学でやったので、何となく感じたのだが、これらの財宝は、恐らく、数十億単位になるのではないかと思った。木箱は一抱えほどもある大きな箱であって、その中に象牙だの、金貨だの銀貨だのがあるのだ。アルバイトが騒いでいるが、象牙の細工も相当、大したもののようだし、金貨や銀貨に至っては、村田がスマホの中の電子書籍を参照しながら驚いているが、有り得ないほどのラインナップのようである。蒋介石がどうとか言っているが、私にはよくわからない。

ふと、部屋を眺めて、ここの部屋の木戸…つまり、先ほど、気違いが飛び出してくるのではないか…という展開場所、謎の木戸の前には、古い盛塩がされていた。器も銀の器である。塩は黄色く変色している。銀の器も、緑青がかかって古い味わい。そこだけ見ると、古いバーのようにも見えた。いや、ここはバーなのではないか、とふと思った。第一の箱は空であったが、そこには獣の匂いが濃く残っていた。このドアを開ければ、狂人が飛び出してくるのではなく、古い、良い感じのバーがあるのではないか、と思った。直感である。私は直感だけで、井上映像の施設総監督にまでなった男だ。

何故そんな事を思ったか、はわからない。だが、記憶の底で、私は、この先にバーがあって、そこまでの見取り図を見たような記憶があるのだ…。暗証番号が0000であった事も、その資料にあったような気がした。私には、人生の中で、記憶が曖昧な時期があって、その時に、この先にバーがあったのを知ったような…いや、考えすぎだろうか。既視感は脳の錯覚だろう。アルバイト諸君は、いまだに作業している。私は声をかけた。

「うん。だいたい、そこまででいいだろう。どんくらいの価値なのか」
「民芸品はわかりませんが」
「象牙はけっこうすると思います」
「刀、鎧、これ細かいところまで」

刹那、バーンと木戸が開いた。私は仰天した。死んだ、と思った。背中を丸めた老人が、木戸を「世界の外側」から開いたのである。あろう事か、世界の外側はバーに連なっていた。老人は、我々を強い目で見据えていたが、何かわかったのか、穏やかな顔になった。狂死は免れたような気がした。

「すみませんっ」

私は思わず謝った。老人は、微笑むでもなく、泣くでもなく、そして震えながら、

「な、なあに。驚く事はねえさ。あ、あのな、こっちへ来るが、いいよ」
「えっ」
「へへ、へ。ここまでは、あんたらが、入ったって、大丈夫だからよ。杞憂だよ」

老人の誘いは非常に巧みで魅力的であり、我々は、バーの中に入る事にした。あれほど恐れていた木戸は軽く、閉まった。中は温かな雰囲気であった。我々は横一列にバー・カウンターに座ったのである。まるで18世紀か19世紀のバーといった風で、ランプの炎が揺らめき、温かな感じである。

「俺は、電気ってものが、苦手でね。ここには、あんたらのような迷い子が、あ、集まるのさ」
「あ…。またドアがある」
「き、聞いていたけどよ、この先には、あんたらの思う、せ、世界があるぜ」

気違いの世界があるのか。気違いの絵巻物の糊代が、このバーなのだろうか。

「ラム酒で何か、作ってやるぜ。つ、つまみは、その皿にあるものを、食って、いい」

我々はつまみに手を出した。あまりにも美味そうであり、腹が酷く空いていた。色々と皿に乗っている。私はナッツを食べた。夢中でつまんでいる間に酒が出た。ラム酒をサイダーで割ったようなものが出た。うまい。

「あんたら」
「はい」
「この先の世界を調べに来たんだろう」
「はあ」

老人は、びっくりするくらい、穏やかな顔になった。そして、ポッポッポ、ポッポッポと笑った。

「ポーッポッポッポ!ナーニ、もうすぐ、た、旅人が帰ってくるだろう。飲んで待つが良いよ。ほ、ほら、横に扉があるだろう。そう、横の扉は安全な、何だ。ナーニ、こっちはまだ世界の内側ってやつだ。こちらさんには、ベッドもあるし、風呂もあるし、電気も通っているぜ。お、おばさんが中にいるから、面倒も見てく、くれるさ」
「お爺さん、飲みますよ。何か下さい」
「へっ!勘定は、どうするんだい。俺をドモリだと思っているだろう!!!」

一瞬、場が凍り付いた。しかし、老人は舌をペロっと出して、

「フィナーレってやつだよ。段々と、こっちも、いかれてくらあ。ほぐしなよ、お堅い頭を、さっ」

我々は爆笑するしかなかった。この老人なりの、自虐的なサービス精神なのだ。

「いいかい?俺は、客が酔ってくると、どもりが治るのさ。生麦生米生卵、東京特許許可局、竹藪焼けたっ、それ、もっと飲みな。バーボン!テキーラ!何でもあるぜっ」
「ひゃっほう」

我々は飲みに飲んだ。たかが外れた。お爺さん、マスターと呼ばずにお爺さんと呼んだ、彼がフォアグラだの羊肉だの、とびきり美味しい料理を出してくれた。ビールも飲んだ。昔ながらのビールでうまい。時間の感覚を忘れるようだった。ふと気になって、携帯電話の時計とカレンダーを見たが、ちょうど12時であった。ここの時間はわからないが、恐らく、12時間ずれているのだと思う。昼と夜が、逆なのだろう。

悪酔いしない酒で、中華粥を出してくれた。我々は、こちらの世界に馴染んでしまい、まだ昼間だというのに眠くなった。お爺さんも寝るらしい。同時に3人入れる風呂で、交替で入り、煙草を吸って眠った。それはもう深く眠ってしまい、不思議な夢を見て、その夢の中でもまた眠った。夢の中で目覚め、また眠った。光輝く夢を見た。夢の中で、二つの影がもつれあい、周りで囃し立てる群衆がいる。それも忘れてまた次の夢を見る。随分と眠ってしまった。

そして、朝が来た。鎧格子から陽の光が差し込み、心地よい目覚めがある。我々は朝食、を作ってもらい、食べた。昨日から色々と支度をしてくれたおばさんは、無口だが、とても親切だ。まるで旅に出たようだった。空気からして、地下から展開し連なっているとは思えぬ。そもそも、陽光差し込み、春の風が吹き込んでくる。鎧格子の隙間から外を眺めると、一面、緑色だ。遠くから牛や鶏の鳴き声が聞こえる。一体、どこに連なっているのか。不思議である。

遠くから、馬の嘶きが聞こえる。馬の歩みはこちらを目指しているようだ。おばさんは、戻りなすった、と呟き、お爺さんは、ポッポッポ、鳩ポッポとふざけ始めた。我々は、気違いのように笑った。けたけた、けたけた、けたけた。そのうち、おばさんが謎の歌を朗々と歌い出し、お爺さんがそれにハモった。我々は、ドゥワ・ドゥワ、と、バックコーラスを務めた。凱旋、凱旋だ。もうこの世界に取り込まれている。帰ってこれるだろうか、と少し不安になったが、もう世界観が違うのだ。「たか」を徹底的に外してやろうじゃないか。ヨイヤサ、ヨイヤサ。すると、お爺さんが、歌を止めて、心配そうな顔で、

「おい。あんたら。少し冷静になるんだ。全く、俺っちに合わせるでねえだよ、無理に」
「そうね。おばさんお手製のコーヒーはいかが」

それもそうだと思い、我々はコーヒーを飲んだ。何とうまいコーヒーだろうか。ここはまるで別世界で、昨日までの自分はまるで他人のようだ。アルバイト諸君の放心した、充実した顔は何だろうか。馬蹄の響きは次第に力強くなり、ガヤガヤとこの山小屋に一団が凱旋入場してきた。お爺さんは涙を流し、おばさんも静かに泣いている。彼らは男二人、女一人であった。そのうちの、男二人の顔に見覚えがあった。ああ、後輩の鈴本と豊田ではないか。井上映像本社勤務だった頃、元気な二人組がいた。海外勤務になったと聞いていたが、彼らは、この世界に突入して、何事かをなしてきたのか…。

「鈴本、豊田。元気そうだな」
「ああヤマっさん!迎えに来てくれたんですね」
「結果的に、な」

彼らは酷く汚れていて、疲れていた。とりあえず水を飲み、パンを頬張り、風呂に入り、その間に我々はお爺さんに話を聞いていた。話によれば、鈴本と豊田は、この世界を冒険し、平和をもたらした、のだと言う。お爺さんとおばさんは、井上映像のある我々の世界と、この世界の間の番人のようなもので、お互いが勝手気儘に出入りしないように注意しているのだ、と言う。狂気的な集団がこの世界に害を与え、苦しめていたところを、鈴本と豊田、そしてこの世界の女性一人が、討伐し治めたのだと。お爺さんの話からすれば、ここはいささかファンタジックな世界であり、また地球と比べればパラレルな世界のようであった。我々の世界から、世紀は遅延する事200~300年といったところであるようだ。魔法こそないが、非常に信仰深く、自然との調和を重んじる世界。そしてあの閉ざされたドア、あれは鈴本と豊田が安寧をもたらした世界の入口であって、また、このドアから入ったこの世界とも、海を隔てて繋がっている。そこまで聞いたところで、鈴本と豊田は、身綺麗にしてこちらに来た。

「ヤマっさん。大変でしたよ。もう、4年くらいの冒険譚でした」
「そうか。そちらの娘は?」
「豊田の、恋人になった人です」

豊田と彼女ははにかみ、はにかみ、くしゃくしゃに破顔した。豊田は言った。

「だいたいの事は聞かれたと思いますが…。我々は、井上映像の特命により、この世界の悪を鎮圧したのです。創始者・井上権蔵は、この世界の出身者なのです」
「そうなのか。井上権蔵は、大正生まれと聞いていたが」
「彼は、15歳の時、この世界を出て、あちらの世界で業を興さん、と旅立たれたのです。我々は、言わば恩返しとして、この世界に派遣されたのです」
「ふうむ、まるで、ファンタジー映画か、RPGのようだ…」

彼女は、凛とした表情で言った。

「あの、ヤマさん…。私と豊田は、ここの、山小屋とバーで暮らそうと思うのです。お爺さんの意思を引き継ぐために」
「そ、そうか…。結婚するのか。おめでとう」
「……」

鈴本は、我々の世界に戻る、と言う。そして、あの地下室にあった財宝の数々は、この世界の魔なるもの、狂なるものを倒した報酬や彼ら自身が持っていたものであり、井上権蔵の隠し財産であったりとするらしい。パラレルな関係にある世界であるが、こちらの世界にも、「日本」があるようだ。文化や歴史など、共通するところはあるが、ディティールが異なったり、かなりの部分で違ったりするところもあるようだ。少しずつ、ズレた世界である。

「しかし、そんなに簡単に、邪悪な連中をなぎ倒せるものかね」
「うーん。何となくね、予定調和的というか、虚構的なものを感じましたが、大変には大変でしたが」
「虚構、か……」

確かに、ドラクエじゃあるまいし、魔物を倒し、魔王を倒しました、財宝を得て世界の王になりました、じゃあるまいし。鈴本と豊田は体育会系だったが、性格もおとなしいし、現在の体格を見ても、以前と比べると苦労したのだろう、随分逞しくなったが、その肉体だけで何とかなるものなのか。世界ケンカ旅行じゃあるまいし。

「君らは、空手でもやっていたのか」
「いいえ…。多少は知ってますけど、触りだけで。僕らはサッカー部でしたからね」
「そうか」

もしかして、これは、井上権蔵の夢なのではないだろうか、とふと思った。井上権蔵というのは凄い人で、裸一貫からこの井上映像の基礎を作り上げ、多くの映像技術者を輩出した、とされる。ご存じのように、ファンタジーが流行したのはせいぜいが1980年代以降であって、井上権蔵の時代はそんな時代ではなかった。もしかして、井上権蔵は、異色の映像人とも呼ばれていたし、晩年にはSFに傾倒していた、とも言われている。これは井上権蔵の壮大なセットなのではないか…。その疑問を鈴本にぶつけてみると、

「うーん、我々が冒険をしてみて思ったのですけれども、そのようでもあるし、そうとも言い切れない部分もあると思います。まず、この世界で触ったり、匂いを嗅いたり、味わったりするものは本物ですし、御覧なさい、太陽もあのように輝いております。夜には月も出ます。今は新月ですが。しかし、そうであっても、虚構のような感覚になる時があるのです」

豊田と彼女も、言った。

「ヤマっさん、僕がこちらに残る、というのも、こちらの世界は、しっかりとこちらの世界だから、なんですよ。信じられない、と思うのはしょうがないですが、これはこれで現実なのです」
「豊田さんに、あちらの世界の話も聞きました。こちらの世界の方が遅れているようだけど、私にしたら、そんなあちらの世界があるって事が、不思議に感じます」

そうすると、どちらが虚構なのだろうか。もしかして、こちらの世界が現実で、我々の世界の方が虚構、なのかも知れぬ。そうすると、もう二度と、我々の世界に戻れないのではないか…と思った。私は、豊田と彼女、お爺さんとおばさんに別れを告げ、鈴本やアルバイト諸君を率いて元の地下室に戻る事にした。バーの出口で、お爺さんは言った。

「うむ、このドアは、何時でも開いておる。好きな時に、遊びに来るがいい。なーに、心配いらないよ。ドモリも治ったし、そもそも、生粋のこちらの人間は、そっちに行く事はできねえのさ。わしは、どっちの人間でもねえから、往来自由よ。もし、別のところで迷ったとしても、何としても、このドアを見つけな。それまでには時間がかかるだろうが…おっと長話になる、じゃあな。また、来いよ」

そう言って、お爺さんはドアを閉めた。我々は、元の地下室に戻ったのである。ちゃんと戻れた事にはホッとした。携帯電話の時間を見ると、時計は狂わず、月曜日の午前3時を示していた。また朝から仕事があるし、時差ボケが数時間あるが、とりあえず、あるものはそのまま、C棟に戻る事にした。鈴本は、私の部屋には他にもベッドがあるので、そこで休ませる事にした。そして朝、チョウさんや守衛に報告して、本社に伝えてもらい、沙汰を待つしかあるまい。アルバイト諸君も月曜日からは仕事がある。鈴本はベッドに入ると、すぐに眠った。死んだように眠った。幸福そうな顔だった。それだけでも、私がこうして小さな冒険をした意味があっただろう。彼がどんな辛い冒険だったか、楽しかったのかはよくわからないが、鈴本にとっても大仕事が終わったのであるから。

そして数時間経って、始業の時間となった。私はB棟で朝の訓戒を述べ、あとは監督にお願いして、チョウさんと守衛のところに行く事にした。チョウさんは朝から守衛と一緒にいた。意気投合したようである。私は、チョウさんに、見たもの聞いたものを、かいつまんで話した。チョウさんは、びっくりし、喜び、嬉し泣きした。

「で、鈴本くんは、まだ寝ているのか」
「はい。大冒険の後ですからね」
「そうか、そうか。私が、フィナーレ、と言った言葉の意味をわかったか」
「??」

チョウさんは、右手で、「先」を指さした。

「ヤマさん、見るがいい。これが、この虚構の果て、だ」

「先」は、真っ白だった。

「ヤマさん、君は、ブラウン管の外から、私たちを見ていてくれ…さらばだ」

私は、そう、ずっと、テレビジョンの砂嵐をぼんやり、眺めていたのだった。それをずっと忘れていたのだ。しかし、私は未だにC棟にいるし、鈴本も部屋で寝ている。さっきと同じように寝ている。少し、空気が淀んできたようにも思える。でも、段々と、曖昧な感じになっている気がする。自分が虚構めいたセットの中で、台本を読んでいるような気分になる。そしてそれに逆らう事はできぬ。部屋にチョウさんが訪ねてきた。チョウさんも、さっきと同じ服装、様相だった。少し慌てた素振りだ。

「いや、さっきは済まない」
「えっ?」
「私も、自分の言っている事が、よくわからないのだ。疲れているのかな」
「どうしましょうか」

もうすぐ、本部の人が来るらしい。チンチン電車に乗ってくるそうだ。刹那、いや、2時間待ったかは不明だったが、チンチン電車は、C棟のターミナルビルで停車し、離発着の合図を出し、カーニバルをキャンセルして、待ち時間を使って、銅鑼を打ち鳴らし、元気良く、財宝を回収した。税制上の問題があるので、会社で引き取り、毎年少しずつ、年金のような形で鈴本と豊田に報酬を与えるそうだ。時価は100億円だそうで、2割は冒険者に与えるそうだ。それには、井上権蔵も大喜びで、老衰の上ショックを受け、200歳で大往生。これには、香典返しが藪の中、檻の中、ホリエモンの読書は頑張った。それが暗喩となって、皆、一旦、死んだ。そう思わせて、余命を保つように。そして、星が瞬き、星が瞬き、凶星堕つ。境が、境が、曖昧になって、幻想になって。目まぐるしい攻防の末、紆余曲折の果て、私は気付いた。

あの時、地下室のATMの封印を解いた時、既に、気違いが、こちらの世界に闖入してきたのだ、と。淀んだ空気は入れ替わり、向こうの世界が救われたと同時に、こちらの世界は救われなくなったのである。

「私の1000万コインを返せ…」

それが、世界での、私の最後の呟きだった。私はもうここにはいられない。誰かがこの世界を救ってくれるだろう。

山城の、その思いは消え去った。彼の自意識は消え去った。山城氏が気付いた時、彼は、うらぶれた街角で、マフラーを巻いて、コートを着て、浮浪者とルンペンの野外ボクシングを見ていた。シュッ、シュッ。いいぞ。やれえやれえ。山城氏は応援もせず、ただただ、傍観していた。彼は、彼の身一つ、何とか生き延びた事に気付いた。ここはどちらの世界なのだろうか。あちらか、こちらか、それとも別のところか。気違いのようなものを出入りさせたせいで、山城氏は、一つ、世界を、潰してしまったのだろうか。

木枯らしが、満月の夜を吹き抜けた。寒い。寒い。ポケットには銀貨がある。20枚ほどある。金貨は2枚あったが、騙されたようだ。もうない。これで、ごろつき宿で眠り、明日から日雇いで働こう。きっとまた出世できるだろう。山城氏は、この世界も、きっと、読んだ事があるのだろう。ただ、読んでいる事を忘れてしまうし、そのただ中にいる時は、その中であるからだ。虚構ではないのだ…と思った。彼の後姿は、むしろ、嬉し気で、見ようによっては切なげだったやも知れぬ。世界を飛び交う気違いめいたものは、再びおとなしくなり、また、山城氏の順調で退屈な毎日が始まるのである。傍観者のままで、あるとしたら、全うできるだろうが…。もう、何もかもわからぬ。誰にも、顛末を知る事はできぬ。星空が瞬いた。あれは何の光だろうか。

遠くに、街の光が見える。その前に、関所がある。ここは貧民街であり、向こうに行くにはこちらで将軍にならねばならぬ。あの街の中に、きっと、あのバーのドアがあって、お爺さん、おばさん、若夫婦が待っている。しかし、元の世界を救うには、こちらから軍隊を連れてゆかねばならぬ。そうするには、まだ時間がかかる。山城の現在が、私たちの現在に追いついてしまった以上、何も述べる事はできぬ。語り部は未来を語れぬ。そう思えるだけだ。

そして、話は途切れた。誰がこの話を語っていたのだろうか。わからぬ。再び、山城氏が正気に戻るまで、この話は途切れたままである。カナダの古書店で20ドルで売っている、ロビンソン百貨店20年史補遺集に挟まっていた、メモ書きが、この話を引用した事だけがわかっているそうだ。それを見つけたのは、チョムスキーだった。そのメモ書きによれば、山城氏はO型だそうだ。

(完)


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厳密な調査に基づいた記事ではありません。これは筆者の主観です。
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自分でも、「馬鹿が馬鹿言ってる」と思うような記事もございます。




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