「嫌いな人にこそあげるべき」古市憲寿氏が「義理チョコ」に持論
2019年2月9日 20時7分
さらに「僕はチョコをすごく食べるんですけど、チョコの好みがはっきりしすぎてて、そのへんのチョコをもらっても嬉しくないんですよ。ノルウェーのミルクチョコレートが好きで、それしか食べたくない」といい、「逆になくしちゃった方が、本当に好意のある人にあげることで人間関係がよりクリアになると思う」と義理チョコ文化は不要だと主張した。
古市憲寿氏 墓石の必要性を疑問視「先祖伝来の墓と言っても、せいぜい2世代、3世代。とっとと撤去とかしても…」
2017-08-21
続けて「(現在の墓は)せいぜい戦後くらいのもの」「昔からのものではないから、別にとっとと撤去とかしてもいいのかな」と言い切ってしまい、スタジオの笑いを誘った。
そんな古市氏に松本人志が死後のことを尋ねる。すると古市氏は「僕、意外と生まれ変わりを信じているんで。お墓はどうでもいい」とキッパリ。
古市氏の論は、自分が不要だと思うので社会でも不要だ、という考え方だ。
保守派であれば伝統に照らし合わせたり、
左派であれば人権に照らし合わせたりするだろう。
だが、古市氏が参照しているのは、常に自身の機能主義的な判断だ。
小説は古いメディア云々などという発言もあるが、
古市氏の機能主義も、それはそれで実は古い、
機能主義も機能主義批判もどっちも古い、
機能主義批判だけが古株のような扱いは困る、
機能主義的な若者像が提示されて、
その時代時代で揶揄されたり賞賛されてきた、
古市氏はその若者像を演じるテレビのパフォーマーだ。
機能主義は確かに古いものを切り捨て、
新しく合理的なものを取り入れようとするが、
その機能主義的なアプローチ自体に、新しさはない。
むしろ古市氏の機能主義は、単純すぎて深みはない。
ただ…以前もブログに書いたが、機能主義批判も空しいものだ…。
こうやって、機能主義的な若者像を演じてみせる
事によって、少なくとも戦後、一定の需要のある
「若者論」ビジネスの旗手となった存在、
それが古市という男だ。
それが、あまりにも自明な事なので、
これまで言及は避けてきたが、
一応このエントリーで言っておく事にする。
これはこれで一種の芸能であって、
機能主義的な=合理主義的な若者を演じる
芸能人であると言える。
機能主義者なので、自身の「社会学者」という肩書も、
テレビゲームの「属性」のように理解しているだろう
と思う。
ゴーマニズム宣言が一般書(雑誌?)のジャンルで
発売されてヒットしたように、
彼も「社会学芸能」という枠組で
ワイドショーやコメンテーターでヒットしている
のである。
ゴーマニズム宣言も、芸能として評価するのか、
思想として評価するのか、かなり迷いがあり、
結局はどっちつかずで、批判もかわされ続けてしまった。
古市氏も同じパターンにハマっているように思えて、
色々と禍根を残すような言説を残していくのだろうな、と
ふと憂鬱な気分になる。
ゴーマニズム宣言もまた、一種の若者論と言える。
小林氏も、常に若者に向かって語り掛けている。
ミスチルの曲の行方も、「混沌とした時代の中で愛を叫ぶ」というような
世界観=社会観に落ち着いてしまって、
ふと、J-POPは「社会」というより「世界」と言いたがるな、
と思った。
墓石を守る事で安定する家や地域もあろうし、
義理チョコをあげる事で安定する組織もあるかと思う。
こういう古市氏の論は、あくまで「テレビ芸能」として
主張しているのか、それとも「社会学者」として
主張しているのか、非常に曖昧だ。
小林氏が「あれはギャグだ」「わしの思想だ」と巧みに
使い分けしているように、だ。
だが、小林氏にしても、古市氏にしても、こういうのが
ヒットし…そしてアメリカは、テレビ・ショーのスター、
ドナルド・トランプを戴いた、という訳だ。
だからお前らは愚民だ、という「愚民論」も
先が見えている。愚民論に伸びしろはない。
そういう芸能的な思想は読み飽きた。
ちゃんとした本を読みたい、と切に思う。
気が付いたら、こんなくだらない本を読んでいるのは
自分だけだった、とならないように。
何よりも、僕が囚われている…。
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