Zaitaku-Kaigo

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在宅介護の話を、思い出し、振り返る事がある。ある本を読んで、「摘便なんて自分はとてもできない、ある種のプレイだ」というような話があった。笑ったが、いや、むしろ、摘便というのは、非プレイ性に満ちたプレイなんだな。あれをしないと、ベッドや車椅子が大便まみれになるから、その苦労を避けるためにしているんだ。アンチ・オイディプスだ。何とも思ってはいない、感情は無だ、ただ、快適にするための作業だ、非プレイ性に満ちたプレイだ。
 
あの日々は、確かに、充実はしていた。他者=家族の、生死を懸けているので、やはり、相応の充実感というのはある。感傷もあり、感動もあり、怒りもある…。だが、あの日々に戻りたいとは思わない…思わないのだが、やはり、かけがえのない、良い日々だった…と思っている。これは自分ではない、という事は考える。家族は他人、という意味ではなくて、家族の肉体というのは、どうしたって自分の肉体ではない。
 
家から少し離れたところに、気違いのお婆さんがいる。昼夜を問わず、突然、家の軒先や二階の窓から、演説をぶちかます。怒りに満ちている。彼女は怒りに満ちている。福祉や医療の手が必要だろう。何かしらの、その手の「手」は入っているようなのだが、完全に統合失調症=精神分裂症なのだが、それもかなり末期的症状で底はついている、底はついているので安定している、だから「キャラクター化」している。
 
ああなったら終わりだ、と思っている。このお婆さんを見ていると、「病前性格」を考える。昨今は、「病気だからしょうがないんだ」という事で、病前性格を考慮しない傾向にあるのか?現場はともかく、世論はそうなっているのだろうか。しかし、現場の福祉や医療において、精神病を扱う上で、「病前性格」には触れざるを得ない。病前性格とは、家族のかつての姿の中での関係の写像であり、元々底意地の悪い人が統合失調症=精神分裂病=早期性痴呆を発症したのなら、マリオ・カートで、キノコがキノコを得るようなものである。


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