日本において、「戦後民主主義」という全体主義だとか、「平和ボケ」の全体主義だとか、昨今では、「アベ政治を許さない」の文脈においての全体主義だとか、そんな事が言われている。
この手の事を本当に信じている人がいるので、バカだアホだと見過ごせない部分はある。
現代において、権力とは何だろうか。現代日本において権力とは何だろうか。アベ政権か。SNSか。世論か。大衆か。マスコミか。GAFAか。力のある友人や上司やご近所さんや地域の偉い人か。行政か。何が権力であり、何がこの国家を統治しているのだろうか。
フーコーの言う「生権力(せいけんりょく)」は、近代の国家=権力が、生身の人間を統治するようになったのでその権力の事を「生権力」と呼ぶようになった。アベ政治を許さない、と叫んでいる人は、アベ氏が、自分たちの生身を統治しているように感じ、それに反発しているのだろうと思われる。その実感がない人が、「アベ政治を許さない」を冷笑している訳だ。
ところが、アベ政治に生身の身体を統治されている実感がない人たちであっても、GAFAに管理されているように感じる人はいるかも知れない。中国においては、信用や利便性というものと引き換えに、生権力の侵入を許している(=許さざるを得ないし、それ以外の選択肢はないように思われる)という事態もある。
中国共産党は、恐らく、フーコーの生権力を理解した上で行使しているだろう。伝統的に、古典を紐解いて深謀遠慮を巡らせる事を好む政府である。
日本においては、例えば、新卒で、カタギの会社に正社員で入ろうとするならば、リクナビを使わなくてはならない。リクナビは、フーコーが考えていた生権力に相当するだろう。多かれ少なかれ、文明のあるところに住んでいる市民、国民は、生権力と付き合っていかないといけない。
アベ政治は、マスメディアやSNSを通じてやってくる。モニターがなければ、アベ政治を許さない、とは思わないだろう。本質的に許さないのはアベ政治なのか、それともモニターなのか。「知る権利」というものから、一歩、二歩引いて考えてみると、また、違った視点を得られるかも知れない。
国家は妄想である、なんて言う人もいるが、恐らく、生権力としての国家というものは妄想である、という意味の事が主張の主眼であると思われる。どんな生権力に対しても、鈍感であれば、まるで統治されているという実感がないのだから、その攻撃は無効である、という事になろう。フーコーが言いたかったのは、生権力がある、というまずその事だ。
そこから先に話を広げると、権力を警戒し、批判し懐疑し違和感を持とう、というくだりからきて、生権力に対してアレルギーを持つ事になる。誰しも生権力として君臨する可能性があるのが生権力なのだと僕は理解している。生権力はなくせないし、意識して距離を保つ以外に方法はないと思っている。生権力は、生権力に警戒するとその力は増幅し、かといって無視すれば社会を覆っていく、という厄介な性質がある。
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このページは、2019年12月16日の午後7時22分に最初に書かれました。
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