社会全体でビジネスマナーを統一する利益よりも、
統一された(とされる)マナーを外した場合の制裁の方が
有害なような気がするが、
これは、かつての教養、有職故実の代替として、
「どれだけビジネスマナーや用語を知っているか」
というのが滑り込んだ、というのが実情ではないだろうか。
古典の教養に関しても、夏目漱石は読む、
ドストエフスキーは読む、と定番化がされるが、
ビジネスマナーに関しても、マナー講師がそれを定説化する
事で、「定番のマナー」が捏造される。
おじぎをする時に手を前で組むとか、謎の作法が次々と
編み出されていく訳だ。
これからの時代は、マナーを覚える暇があったら、
新しい技術を習得した方が良い時代になろうし、
マナーという点で言えば、グローバルな、各文化圏の
マナーを広く浅く、知っておいた方が良いと思う。
マナー講師が教えるマナーは、あくまで国内の、
社会人社会の中の、更にその中でも
ホワイトカラーの中でしか通用しないマナーである。
そもそも、社内で立場のある人はマナーを外しても
許されるので、マナーを過剰に要求するのは
パワーハラスメントの温床になる。マナーの判定は
非常に定性的なので、それを裁く人間次第になる。
人間主義とは、かくも残酷なものになり得る。
まさに公家社会の有職故実、武家社会の約束事のような
ものであって、我々はまだ、封建社会の残滓の中に
漂流しているのかも知れない。
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このページは、2019年5月9日の午前8時36分に最初に書かれました。
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