歴史研究と世情

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その時代、時代によって、
人気のある「歴史上の人物」は違う。
 
歴史研究で、どれだけ実像に迫ったと
しても、大河ドラマや、アニメーションや
漫画、ゲーム、小説によってキャラクターが
作り込まれ、
 
幕末であれば、鋳型のように決まった世界観が
繰り広げられ、戦国時代であれば女はいくさが
嫌でございます、とのたまうのが
最近の傾向だ。
 
それがいけない、という訳ではないが…。
歴史研究もやりづらかろうな、と思う事はある。
フィクションによってその分野が注目される、という利点は
あるし、人気がなければ研究の予算も付きづらいという現実も
あろう。だが、歴史研究というものが、政治や、権力や、
世情や、商売に従属させられている…という今の現実は、
致し方ない事でありながら、口惜しくもある。
 
最近では、縄文ファンタジーというのもある、
僕らの頃もあったが、「縄文時代の生活を想像して
話し合ってみましょう」という課題的なアレである。
 
俯瞰して見てみれば、自分たちの先史について、
ロマンティックに振り返る余地のない大変な国という
ものもあろう。ソマリランドとか…。
それを考えれば、嘘は嘘としても、
文化的財産ではある。
 
家康なども、相当程度、美化されているし、
信長も、物凄い天才武将という扱いになっている。
戦国武将の伝記において、後世で総括すればそれは
深謀遠慮によるものだった、と言えようが、
昨今の研究においては、偶発的なもの、やむにやまれずに
した事が吉と出た…という説もある。関ヶ原然り。
 
現代を生きる上で、それで問題はないし、
相手がそれを信じている以上、世間話の類で、それを訂正
するのも角が立つだけである。
かくして、歴史学者は、ますます立つ瀬がなくなって
いくようであり、微力ながら応援してゆきたい。
 
まず、学校教育においての表面的な学習に飽き足らず、
大河ドラマや歴史漫画の、テーマの深掘りに夢中になる
といった成長過程もあると思うので、あまり厳密に
大河の嘘を暴くのもどうかな…という気もしてくる。
 
歴史には、文学的推理というか、推理小説的推理で
余地を埋めている部分もあって、その埋め方というものが
時代の流行であったり、権力の意向によるものだったり
する。坂本龍馬が大衆によって語られるようになったのは、
恐らく、司馬遼太郎以降の事であろうし、
龍馬は教科書から消えた、というニュース?があったが、
そんな事を言えば、山中鹿之助はとっくに、副読本からも
消えているのである。


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