ネットが炎上する時の、人間の心理の機序という
ものは何だろう?と考えてみる。
まず、有名人AがBという発言をして、
そのBが炎上したとする。
炎上させた大衆をCとする。
AのBという発言は、インターネットを通じて、
世界に発信しているものではある。
炎上するのは、相互不信がある。
AとCの間に相互不信の関係があると、
火が点きやすい。
相互不信から、発言Bを巡って、過剰に
怒り、怖れ、負の感情が増幅しやすくなる。
Aは、Cの中の個人C(1)、C(2)、…C(N)に直接
メッセージを送っていない。だが、C(X)は、
まるで自分に言われているように思ってしまう。
そうすると、C(X)の方に、強迫的な感情や、
視線恐怖的な感情があるように思うが、
(人は誰でも、三秒なら精神病と同様の状態になるという)
AのCに対するリアクションもまた、強迫的であり、
視線恐怖的になる。
Bという発言を巡った炎上は、Bというテキストという
ものを祀り上げて、それをAもCも恐怖するように
なる。これが視線恐怖の、ネットにおいての展開
なのではないか…?
Bという発言がモニターにあって、それをCが怖れ、
怒り、哀しみ、Aがそれに応酬してしまう。
Aは、「BはAの全てではない」という反論をする
事がよくあるが…。全てではないにせよ、BはAの
一部ではあって、AとCの相互不信が、Bに対する
強迫性や、視線恐怖性をつくりあげている。相互不信が
ある故に、Aから由来するBが論点となってしまう。
単に恐怖、としなかったのは、モニターを基本とする炎上の
機構として、お互い、モニターを”見て”炎上している、
という視覚的な部分が重要に思ったからだ。
モニターを見て、怒り、怖れ、哀しみ…という心理の機序は、
思えば不思議な人間の行動ではないだろうか。
ひとりで静かに本を読むように、
ネットを読めないものだろうか?
最近では炎上案件、などという表現もあり、発言者のレベルと
発言内容、それから発言者と大衆の関係性で、ある程度、
炎上するかどうか、わかるようになってきている。
そういう意味では、炎上する機序はパターン化してきていて、
儀式性も帯びているように感じる。パターン化、ルーティン化
してくると、「炎上しぐさ」のようになってきて、
儀式性を感じてしまう。
炎上というものを、多かれ少なかれ、僕たちは経験しながら、
本質的には何を経験しているのだろうか?何をしている
のだろうか?どうしてインターネットに対して恐怖したり、
怒りを感じたりするのだろうか?インターネットに対して、
人間の悪意を拡大して感じてしまうのは、邪眼的な怖れが
背景にあるのではないか…というように思って、拙論を
書いた。
この記事について
このページは、2019年10月3日の午前4時57分に最初に書かれました。
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