いわゆる公的領域

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公的領域、いわゆる、私-公と対比されるものの
「公」というものについて、
ジョン・アーリ「社会を越える社会学」を読んで
考えさせられた。
 
アーリは、移動性(モビリティ)社会学というのを
常々言っており、この本は、移動性社会学を
提唱するに至るまでの思考を、
社会学のこれまでの論考を整理しながら論じている。
 
通常、「公的領域」というと、
例えば電車の車内であったりとか、公園であったりとか、
いかにも「公」!然としたものが語られがちの上、
「公的マナーについて」という論考に矮小化されがちであった。
 
僕らの住んでいる日本の街を落ち着いて見てみよう、
いや「公道」ばっかりじゃないか。
走っているのは車ばっかり。
ほぼ半分以上が「公道」である時代に、旧来型の「公的領域」論は
果たして有効なのか?
 
これまでの、僕の読んできた日本の「公的領域」論は、
ノスタルジックな「光景」を元にしたものが多く
(公園だったり、農村だったり)
いやー、随分、古い考えを掴まされてきたのだなあと
暗澹たる気持ちに…。
これまで、暗黙の了解で「公道は公道」というような了解がされて
きたように思うが、移動性社会学がその穴を埋めている。
 
「社会を越える社会学」は、公的領域の話ばかりを
している訳ではないが、
移動性社会学というものに最近、社会と、そして社会学の
可能性を感じている。
 
小林よしのりら、保守系論壇の説く「公的領域」は
私-公、個-集として整理した
西部邁の論考を更に簡略化、保守化したものであり、
全く現実に沿っていない。
自治会、町内会の言及すらない。
 
保守系論壇がかつて、大騒ぎしていた
「公」の崩壊というのは何だったのか?
彼らが論じていたのは、いわゆる「公的マナーの崩壊」
であったのだが、
マスメディアやインターネットの発達、
ますます進む自動車中心社会、
飛行機によって大移動する市民たち、
こういった質的な変化が、「公的領域と私的領域の
交わり方」を変えていったのではなかっただろうか。
 
Glob=地球 と Global=グローバル
の混同も見られる。
前者は、いわゆる宇宙からみた「地球」のイメージから来る
「宇宙船地球号」「コスモポリタン」のイメージである。
後者は、経済的、文化的な、そして国家を超越するような
スタックとフロー。
「地球主義」と「グローバリズム」は、寧ろ対立する事も
ある概念である。
 
宇宙から見た地球のイメージ、ダイアナ妃の衝撃的な死、アメリカの9.11、
マスメディアによって増幅され、世界中にばらまかれるこのイメージ、
世界の事件を世界中で共有するという事、
マスメディアがなかったら知り得なかった事、
ローカルの世界に住んでいれば知り得なかった事、
これらを知ってしまって、何だかんだと、大騒ぎしてしまう、僕ら
現代の人間というのは、一体どういう状態であるのか?
 
これまでの保守論壇は、テレビの悪影響について、
テレビのコンテンツの質、つまり愚にもつかないバラエティ番組、
イジメに近いようなお笑い番組こそが、公的マナーを悪化させた…
というような主張であったように思う。
だが、僕らは、何故、見た事もない「地球のイメージ」を
知っているのだろうか?
世界のニュースを世界で共有する、このマスメディアのパワーこそが、
ローカリズムを「変容」させていったのではなかっただろうか?
 
(バラエティ番組の出演者に対しては、会った事もないのに
会ったような気になる、親近感が沸いてしまう…という、別の論点を持つと思う)
 
アーリの論考は、「だからこれは問題だ」などと安易な結論を避け、
愚直に、現状を丁寧に説明し続ける事をひたすら続けて、
巧妙に過去の論考の引用を挟みながら、
「社会学を大きく統合する」事を目指している。
アーリは、残念ながら、亡くなってしまった…。
 
移動性社会学は、アーリ以外にも、類書があるので、
アーリを中心に読書を進めていく。
 


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