表現の不自由展について思う事

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芸術を検閲してはならない。
…というのは、現代において、民主主義が確立した
国家においてのみ、通用するものである。
 
江戸時代において、春画や、実在の人物の登場する
物語に規制があった事はよく知られているが、
それでも、爛熟な文化は花開いた。
 
現代の日本においては、あいちのあの会場で
「表現の不自由展」を開く事は不可能であっても、
(後日、制限付きで開催されたようだ)
理解あるスポンサーを得て、発表する事は
充分に可能である。
 
芸術の歴史において、新しい芸術というものは、
検閲自体の問題よりも、大衆に理解される事が
難しいせいで、批判を受けたりもしただろう。
 
表現の不自由展が、真に新しい芸術であると
いうのであれば、やり方を考えて、執念深く
展開してゆけば良いのであって、
この件をもって、芸術は死んだ、などと言うのは、
あまりに…あんまりだと僕は思う。
 
プロパガンダ芸術、プロレタリアートの文脈で
考えれば、個人的には好きではないが、
表現の不自由展もひとつの芸術の姿であって、
それならば、文科省ではない、他のスポンサーを
見つけて今後は展開していくのが筋である。
決して、万人受けする芸術ではないからだ。
 
代替的な、Alternativeな表現手段や場が
用意されている現代の日本において、検閲という
行為は、こと、表現においては、ひとつの
批判のひとつと考えてはどうだろうか。
サイトブロッキングとは違い、表現の不自由展を
日本のどの会場でやる事も禁止された訳では
ないからだ。これは非民主的な国家との
大きな違いだ。
 
有料課金でVRで見せるというやり方だってあると
思う。あらゆる場所であらゆる芸術、表現を
無検閲で展示できる国家というのは、
寡聞ながら、僕はないと思う。
 
反権力芸術であるからして、かように、検閲と
戦うところまで含めて表現の不自由展なのだ、
と言われればそれまでであるが、そうなってくると、
芸術の旗を掲げたプロバガンダである、という
批判も受ける必要があるだろう。


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