ワイはアカやからな

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短編小説「ワイはアカやからな」

ケン坊は、物心ついた頃から、アカだった。ケン坊の家は裕福な家だったが、お父さんは愛国者であった。お父さんの話に合わせて、ケン坊もそう思うだろう?と問われると、
「靖国神社参拝、さんせーい!!!」
と、顔を歪めて笑い叫ぶのだった。お父さんは、その顔の歪みには気づかず、頭を撫ぜた。その叫びはケン坊が小学校4年生の時であるというから、当世にしても早々、早熟だったかも知れない。

ケン坊の苦悩たるや、その自室の、壁や床の傷が物語っている。ケン坊は、お父さんの愛国的な圧迫を受ける度に、壁や床を掻き毟るのだった。その左翼的思想は、生来のものといってよかった。図書室の自伝で、本能的に手にするのは、マルクスや毛沢東であった。その父が、ケン坊が10歳の時に死んだ。右翼的殉職といってよかった。つまりは、靖国神社で割腹したのである。

それはニュースになった。ケン坊は、そのニュースが掲載された、新聞紙を、真っ赤に染めた。染料は、豚の血である。うろ覚えの知識で、豚と中国共産主義が結びついていた。ケン坊は、その年、中国共産党に入党した。翌年、日本共産党と中国共産党の対立があり、ケン坊は、党の所属から離れた。孤独な青春時代を謳歌して、ケン坊は18歳になった。

ケン坊は、学問ができるものだから、早稲田大学に入学した。早稲田大学とはつまり、バカ田大学のようなものだ、と思っていたから、大森駅で降車して、白湯を飲んだ。大学を、最もつまらないやり口で、サボタージュした。其の内、なし崩し的にアルバイトを始め、たまたま入った会社で、正社員となり、大学は中退した。ケン坊の母は、借金をしてケン坊を大学に行かせていたが、宝くじが当たり、その生計に猶予が与えられたが、ケン坊は、母の眼差しを、覚えてもいなかった。

ケン坊は、会社に勤めた。事ある毎に、言った。
「ワイは、アカやからな」
しかし、その言葉は通じる事がなかった。日本は、火星人に支配されていたのである。ケン坊の、白湯通いが奏功して、火星人の支配は、直ぐに終わった。パラレル・ワールドは、次第しだいに、現実社会に接続された。ケン坊は、部長職にまでなり、母は90歳となった。母に、突然、会いたくなった。

ケン坊、母を訪ねる。母は気丈であり痴呆の影もなし、矍鑠としていた。ケン坊は、母に尋ねた。父とは何ぞや、と。
母は言った。
「ケンちゃん、お父さんはね、お父さんの弟の、コピーなの。遺伝子的には全く、同一よ。それより、バーボンを飲まない?」
ケン坊は、母と、バーボンを飲んだ。母の自室の、本棚には、村上春樹の本が全て、揃えられていた。その翌年、まさかの村上龍がノーベル文学賞を取り、アベノミクス第二弾として、マジックマッシュルームが解禁される。時代は、パラレルに動き出していたのである。

ケン坊は、母に言った。
「ワイは、アカやからな」

母は、言った。
「そうだろうね。バイパスの出口で、あんたが、ミのシャープで、馬鹿、って言った時から、気付いていたわよ」
そう言い残して、母は自壊し、自爆した。自室に大きな頬被りを遺して。享年、100歳。時は、歪むのであった。ケン坊は、その時から、アカを辞めて、「病んだ青」を自称した。仏壇が、揺れていた。大又さんの、神棚は、笑った。どのようにって?

そりゃあね。
笑うってさ。
ケータケタケタケタケタケタケタケタ、
って、笑ったのよ。神棚がさ。ちっとも、愉快じゃないけど、そんな話を、今はもう死んだ漁師が、言ったのさ。飲みもしない、バーボンを飲ませたらね。言ったのさ。彼、ちっとも、アカじゃなかった。寧ろ、真っ青な「イエロー」だわね。おっとそれは、皮肉が利きすぎているから、おかみ、焼酎呉れ。あいよ。お客さん、お勘定ですよ。

「呉越同舟」

そうだ、そうだ、僕らは、み~んな、アカなんだ。左翼政党、おどけ虫。ウヒーッ。

(終)


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