ラブライブ・サンシャインのリアリティ

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タイトルの通りで、ラブライブ・サンシャインの映画を
諸事情により観に行った。
 
僕は、「古典的な萌え系」を想定していて、
男性に媚びたような振る舞いをするアニメーションだと
思っていたのだが、
まず、初見で感じた印象として、
ストーリーから、文法まで、完全に少女マンガの作法で
作られていて、それ故に男性不在のアニメーションの
ように思った。
 
「萌え」というのは、広義に欲情する男性の存在と不在が同時に
描写されているものだと思っている。これがエスカレートすると
アダルトものになる訳だ。
ラブライブ・サンシャインは美少女アニメでありながら、
「萌え」系ではないし、僕にとって「萌え」の定義を
揺るがせるものであった。
 
一方、少女マンガというのは、男性そのものを排除して、
女性だけの閉じたユートピアを作る…これがいわば、
古典的な意味での、限定的な意味での少女マンガだ。
萌え系でないなら、少女マンガとして観るしかない、
僕はそう思った。
 
成田美名子、那須雪絵、楠桂、岡田あーみん、さくらももこ、
池野恋…??
今はよく知らないが、90年代の「花とゆめ」の少女マンガというのは、
あの頃の「りぼん」「マーガレット」等々…、「ヤングユー」「コーラス」、
あの多様な、少女たち/女性たちの世界があった。
 
ラブライブ・サンシャインとは、どういう世界であるのか…。
ロケーションや、設定、キャラクターが前面化していて、
これらが、話の中身をつまらなくしているような気がする。
ほぼ、会話とポエムのようなセリフだけで、
ほとんど話らしい話はない。
 
男性的なリアリティも排除されている一方、
少女的なリアリティ(=24年組以降のリアリティ)もさほど感じられず、
楽曲や、ロケーションの作りこみと対照的に、
単なるキャラクターの掛け合いに終始する。
 
「天地無用!」というアニメーションがかつてあって、僕はその
話のつまらなさに仰天したものである。
かつて、恋愛シミュレーション・ゲームというジャンルがあって、
それならまだ…理解できるのだが。
男性が楽しめるものではあるからだ。
 
「天地無用!」にも、「ラブライブ・サンシャイン」に
感じるのも、同様に「閉じた世界のユートピア」という点だ。
映画版で、金髪の女の子の母親が渡航費用を出して、
少女のグループがイタリアに三年生のグループを探しに
行くという展開がある。
 
彼女たちは、イタリアにおいても、ロケーションを楽しみ、
そして歌う。常に彼女たちは観光客のようだ。
結局、三年生のグループと合流できるのであるが、
三年生のグループの中に金髪の女の子がいる訳であって、
ライブをするにしても、渡航するにしても、
何らかのプロモーションの影というものがあっても良い筈であるが、
それが見事に捨象されているところに、特に閉じたネットワーク、
男性的なリアリティの排除を感じる。
この物語の状況が成立するためには、かなりの「大人たち」=「男性的なリアリティ」
の作為が必要であると思われるのに、まるで少女たちだけが
自力でこの状況を達成しているように描かれている。
まるで「はじめてのおつかい」だ。
 
例えば「名探偵コナン」であれば、コナン君が「大人たちの作為」に
うまくただ乗りして、時には翻弄し、翻弄されたりして、
それなりのリアリティ、言い換えれば作劇としての作法を
感じる事ができる。
かつて、「BS漫画夜話」で、少年マンガ、少女マンガ、
青年マンガの「リアリティのレベル」の話になった。
「ラブライブ・サンシャイン」のリアリティの設計は、
ほぼ、「ロケーションのリアリティ」のみで、
ストーリーの整合性や、人物描写に関しては、
ただのキャラクターの「掛け合い漫才」に終始している。
そういうリアリティの設計をしている。
 
このアニメーションの制作者は、
この手の作劇に対して、どこまで意図的、意識的、
プロモーション的、マーケティング的なのか?という事には興味がある。
 
最近のアニメーションは「セカイ系だ」なんて、かつて良く言われたが、
「世界に私たちは存在していて、それで完全性がある」という閉じた世界、
観光客が観光の時に振る舞い、まなざしを傾ける、観光の時だけの一時性が、
永遠に続くようなリアリティのない世界。
寧ろ、そのリアリティの排除と閉じた世界のユートピアが、
そしてロケーションのリアリティだけを追求したギミックが、
沼津の聖地巡礼化を可能にした…とも気付かされた。
 
時々、クローズアップされる
少女たちの太ももの描写は、パンチラを狙ったものではなく、
躍動感やカメラワークを意図している。
この世界には、男性的なリアリズムがないからだ。
 
徹底的に、少女たちだけのコミュニティが描写される。
スクール・アイドル=観客 といった関係性で完結した閉鎖系で、
「スクール・アイドルの活動に反対している父兄」というのは
台詞で暗示されるだけで、キャラクターとしての登場はない。
金髪の女の子のお母さんが、反対する役として登場するが、
僕にはあのお母さんは、スポンサーであり、見守り役であり、
狂言回しのようなキャラクターにしか見えない。
あの母親は、最低限、物語を回すための「男性的なリアリティ」を
担うと同時に、女性的に中和する存在である。
 
少女マンガであれば、「反対する父兄」などのキャラクターは、
特に古典的な少女マンガが好む「反対する父兄」という存在は、
物語の対立軸として、クローズアップされるだろう。
「反対する父兄」は、嫌悪されるべき男性リアリティとして登場し、
そして撃退される…それが少女マンガの作法だ。
そうやって、少女たちのコミュニティを守っていく、
そういう女子高的な世界。
 
その方が、物語としてのカタルシスはある筈だ。
だが、その手法は、恐らく、意図的に排除されている。
すると、「閉じた世界のユートピア」でありながら、
少女たちは「スクール・アイドルというディアスポラ」のような
両面性も持っているようにも思われる。
 
「ヨハネ」というキャラクターは、「聖地」と
「受難」=「ディアスポラ」を示唆しているのだろう。
キャラクターの深みという意味合いではなくて、
キーワードの連想的配置として、ヨハネという名称を
確信的に用いている。
 
台詞にしか登場しない、抽象的な敵が暗示されるだけで、
結局、少女たちは、自己変革する事でのみ、状況や物語を
動かしていく。
敵がいない事自体が、受難であり、ディアスポラであるようにも
思わせるのである。
サタンやデーモンを喪失した受難、地獄のない仏教、
少女たちの純潔は退けられるのではなく、最初から狙うものがいない。
ここには諸星あたるはいない。
 
僕は、「ラブライブ・サンシャイン」の少女たちの微笑みは、
男性に向けてされている「まなざし」なのだと誤解していた。
そうではなかった。
あの微笑みは、少女たちが、少女たちを肯定する
微笑みだったのだった…。
「Aquosは遊びじゃない」と言って、部活動としての
スクール・アイドルを頑張る少女たちが、成長し、
自己実現して、自分を肯定する、その肯定としての
意味合いを持つ微笑みだったのだった。
 
「対立する父兄」も「反対する教師」も「バイキンマン」も登場せず、
「敵役」の存在しない、このラブライブ・サンシャインという世界の中で、
ただ自分たちの過失を責めて、成長していくというやり方で、
自己肯定していく…という構造になっているように思われた。
 
「敵を倒すカタルシス」による癒しではなく、
「自己変革による問題の解決」による癒し。
恐らく、僕の理解できない、この部分に、
ラブライブの熱狂の理由が隠されていると思う。
 
作品の中で、男性的なリアリズムが排除され、
それが「敵」として登場しないので、
男性の視聴者は、少女たちの庇護者として完全に承認され、
もしくは少女たちに感情移入し、一体化する事で、
同時に肯定され、癒されているのかも知れない。
この世界は、男性的なリアリズムや、
女性的なリアリズムでさえ捨象してしまうが、
「apuos」のファンでありさえすれば、
男性であれ女性であれ、拒否しない。
 
庇護者…。少女たちだけのコミュニティの庇護者として、
映画の中で「松月」の店舗の方がワンカット映り込んだ。
聖地巡礼とは、少女たちを庇護してくれる、
ディアスポラである彼女たちの休息の場所を
探して歩く、という意味合いがあったのだった。
そうして、作品の世界を追体験し、同時に体験する。
 
敵があるとするなら、「aquosのファンでないもの」だ。
ラブライブ・サンシャインの物語では暗示されない、
「aquosのファンでないもの」が敵である。
ファンとアンチの対立が妙に激しい作品だな、と思っていたが、
この作品の唯一の敵は「アンチ」なのだ。
「アンチ」を敵にしてしまうぐらいなら、
作品内にちゃんと、憎まれ役を作った方が健全なのではないかと思う。
 
現実の都市・沼津とコラボレーションするという事で、
人物モデルを特定されるような
憎まれ役を作るのは問題がある、と判断したのかも知れないが、
作品自体に暗示されている訳でもないのに、結果、
「ラブライブ・サンシャイン」の唯一の敵というのは、
「aquosのファンでないもの」、
全体として、そういう原理の作品となってしまっている。
コミュニティや物語は、味方と敵を区別するという性質からは逃れられない。
それを超える事は、人間にはできないのだ。
 
短編や、ある種の作品には、敵・味方を必要としない作品もあるだろう。
だが、「群像劇」で「長編」の作品に、敵・味方がない、
というのは絶対に有り得ない。
 
ラブライバーにとって、「aquosのファンでないもの」「アンチ」は、
虚構としての作品のシステム上も、現実の人間関係としても、
同時に「敵」としての意味合いを持ってしまう事になる。
これは、この作品が、敵役、憎まれ役を作らなかった事の
「代償」である。
多くの牧歌的なラブライバーはそのようには認識しないだろうが、
原理的に理解している、熱狂的なファンの「排他性」は、
この作品自体が持っている、コミュニティの原理にあったのだった。
 
批判するなら、映画なんて観るな、と言われそうだが、
それについては本当に申し訳ない。
諸事情で、観なければならなかったし、
僕の視点で思うところを書いた。
ただ、物語の構造や、リアリズムの在り方が理解できたので、
これからは「無」の感情で受容できそうである。
 
まるで「ラブライブ・サンシャイン」にワンカットだけ映り込む
モブのように。
敵・味方のシステムの原理から逃れる方法、それは、
コミュニティ/物語のモブになる事である。


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