観光における「聖地」

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「観光のまなざし」を再読している。
 

 

D・マッカネルからみると、どの観光客にも本物志向があり、この志向は聖なるものにたいする人類普遍の関心事の現代版である。観光客は、一種の現代の巡礼で、自分の日常生活とは別の「時」と「場」に本物を求めているのである。観光客は他人の「生の生活」のなかにも独特の魅惑を感じ、これにどういうわけか自分自身の経験のなかでは見いだせないような現実味を感じるのだ。現代社会というのは、したがって、よそ者がその営みを覗き込む権利を急速に制度化しているのだ。

 

D・マッカネルの主張は、ふつうは聖地化の過程があり、聖地化が、ある自然あるいは文化的文物を観光儀礼の聖なる対象に変えていくというものだ。それにはいくつもの過程がある。風物の命名、構成と推敲、祀り上げ、聖具の人工的な複製、そして社会的再生があり、つまり、新しい風物(あるいは名所)は有名どころに倣って名前がついていく。また、次のことも大切である。賛仰されるような見せ所もたくさんあるが、多くはまなざしを向けられるだけでおしまいなのだ。言い方を換えるなら、観光客のまなざしはびっくりするほど気まぐれで、なにか新しいものはないか、なにか違うものはないかと探し、期待を膨らませているのである。D・マッカネルは「どんなものでも潜在的には見世物になる。ただ、だれかが、他人に向かって、あれは面白いよ、一見の価値があるよ、と指摘する労をとってくれるのを待っているのだ、とも言う。

沼津のラブライブ・サンシャインも含め、「アニメの聖地巡礼」が、
全くもって、「観光のまなざし」で引かれている、D・マッカネルの
セオリー通りに構築されているのが、とても興味深い。
「観光のまなざし」はやや古い本ではあるが、現代の状況に関しては、
スマートフォンによる「GPS」と「カメラ」のモビリティの視点を追加するだけで、
アップデートできる。
 
アニメーションの展開によって、「沼津はラブライブの聖地です」
「ここに誰それが来ました」「ここは公式の聖地認定されたところです」と、
まさに”一見の価値があるよ、と指摘”される事で、一連の観光パッケージとなった。
「このアニメは神」「神アニメ」などと称され、「聖地巡礼」というような様式の
「観光」になるのは、観光そのものの巡礼性と、
おそらくマルクスの言うような現代文化の「物神性」が交差している、
と言える。
 
オタクがコンテンツやキャラクターを「神」になぞらえる時、
単なるパワーワードとして「神」という言葉を用いているのではなく、
それは物神性を持つコンテンツの宗教的感情を含んでいる。
それは宗教的感情ではない、というのは、
南無妙法蓮華経やアーメンではない、と否定しているに過ぎない。
 
現代文化の、コンテンツの「物神性」。
観光文化の持つ、「巡礼性」。
これが交差する点こそが、アニメーションの「聖地巡礼」であると言える。
 
アニメーションの「聖地巡礼」とは、既存の宗教の「聖地巡礼」のメタファーの
形式を採りながら、コンテンツと観光の「神性」に対する感情をベースと
しているのである。


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